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【70】連休と3人の子ツバメ [ほいくえん送迎記]

 乙鳥はまぶしき鳥となりにけり 草田男
 一番に乙鳥のくぐるちのわ哉  一茶

 ツバメが飛び交う季節になった。わが家の3人の子ツバメたちも連休に入って、時間をもてあまし気味で、昨日などは、流行りのベイブレードをめぐって2人の兄弟はケンカを繰り返すので、とうとう全部取り上げて手の届かないところへしまい込んでしまった。もう泣こうがわめこうが、与えないことにした。ヒトシはショックで夕食も食べずに外へ出て行ってしまった。

 ああいう子ども相手のおもちゃのマーケティングというのはなるほど周到で、いろんなしかけで子どもたちの欲望を刺激する。テレビのアニメなどもまったくマーケティングそのもので、売らんかな一色である。もっと幼い頃に電車やミニカーなどをほしがっていた頃のほうが精神衛生的にはよほどまともである。

 ヒトシは私の家にくると真っ先にパソコン(iMac)の前に座り、ユーチューブのなんだかわけのわからない(気色悪い)怪獣の出てくるCGなどを見ている。これもまだ小さい頃は電車や新幹線を見て喜んでいたのであるが、いつのまにかブラウザを開き、ユーチューブを見ることを覚えてから次々に案内される刺激的なCGをクリックするようになった。

 ヒトシ用のアカウントをつくり、制限時間を1時間に設定しているが、1時間なぞはあっという間なので、隣に並んでいるウインドウズ用のノートパソコンを開こうとするが、こちらもしっかりパスワードをかけているので、開くことはできない。わたしがパソコンを立ち上げているところを見て、パスワードを覚えようとしているが、まだアルファベットを憶えるほどの能力はない。

 連休で保育園送迎もお休みなので、陽気に誘われて散歩する。ツツジ、コデマリ、オオデマリ、ヤマブキなどが花盛りだ。やはり息切れがして苦しい。鼓動も速くなる。いつになったらラクに歩けるようになるのか。それとももう無理なのか。考えても詮無いことだが、つい悲観的になってしまう。



 

 

 

【69】これまで6年。これから5年。 [ほいくえん送迎記]

 新年度が始まってちょうど1ヵ月が過ぎた。ヒトシは2年生になって、毎日重いランドセルを背負って小学校に通い、レミママが育児休暇を終えて勤めに復帰したので、毎日私の家へと帰ってくるようになった。週のうち2回は4時から2時間ほど、すぐ近所にあるくもん教室に通い、1回はこれも歩いてすぐのスイミングスクールに通っている。スイミングは保育園を卒園したら「行きたい!」と自分から言い出したものである。

 朝7時過ぎにタカシがタックンとアンを私の家に連れてくる。7時40分頃に私が2人を保育園に送っていく。最近流行りの電動自転車に2人を乗せる。これはすぐれもので、2人を乗せてギアをトップ(3)にしてもラクに坂道を登る。車だと、駐車場に行って、チャイルドシートに乗せて、渋滞する幹線道路をのろのろと走るので、自転車よりずいぶんと時間がかかる。だから雨の日以外はこの電動自転車だ。ただし、夕方の迎えは車を使う。というのも病み上がりのわが身では夕方にもなると、身体がだいぶ重くなる。

 こうやってまた入院・手術前の送迎習慣に戻った。毎日が過ぎるのが実に速い。わずかではあるが仕事も抱えていて、わずかな収入もある。いろんな意味で仕事だけは続けたいのだ。ただ、身体のだるさはなかなか改善しないし、体重もいっかな増えない。再発の心配も絶えずある。でもこればかりはどんなに心配してもなるようにしかならない。

 娘が結婚前に使っていた部屋をすっかり自分の仕事場にしてしまった。ずっと以前、タカシに買ってあげていたが使っていなかったスピーカーセットとアンプを据えて、AMAZONで極安の中古CD&MDプレーヤー(SONY、15000円!)を買い、パソコンもアンプに接続してCD、MD、iTunes、ネットのFMやNAXOSなどを鳴らしている。これで、閉じこもりでもまったく不自由しなくなった。

 昨年夏から始めて、途中、病気で半年中断していたラジオ体操を4月からまた始めた。身体のだるさがあって朝はつらいのだが、季候もよくなったので続けられている。第一が終わる頃は、ゼーゼーハーハーとなり、第2が終わると、しゃがみ込みたくなる。でもご近所さんが大勢さん毎朝顔を合わせるので、休むとまた要らぬ心配をさせるのではないかと要らぬ心配をしている今日この頃だ。毎日5時半に起きるようになって、夜も9時半には寝るようになった。まったくの老人習慣である。アルコールももう半年以上まったく飲んでいない。

 つい先日、アンが保育園で8度以上の熱を出し、昼に引き取りに行った。呼び出しは久しぶりだ。帰ってきてひと眠りさせたらすぐに平熱に戻った。大人と一緒でこの頃が疲れが出る頃だろう。ちょうど連休も始まって、しばらく休めるのでいいタイミングだ。

 これもつい先日。長い付き合いのなじみの時間外の保育士さんに、「あら、また、おじいちゃん。ご活躍ですね」と言われてしまった。そうだよ。もうあれから6年過ぎた。このまま行けばあと5年は通うことになる。それまでは生きていなくては。




【68】満開の桜の下で [ほいくえん送迎記]

 今年の桜は長く散らずに残っている。わが家の回りも桜並木が花盛り。ソメイヨシノ、オオシマザクラ、と色もいろいろ。そろそろ八重桜も咲く頃だ。孫3兄妹も元気に小学校と保育園に通っている。末のアンは保育園に通いだして2週め。上2人んもそうだったように、保育士さんにわたそうとすると、最初は大泣きしてしがみつく。かわいそうでこちらまで涙ぐむほどだが、なに、1週間もすると慣れてきて、みんなと遊んだり、昼寝をしたり。

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 アンも次第に慣れてはきているが、まだ、朝、別れるときはギャーと泣く。しかしその泣きかたもだんだん短くなって、私が部屋を出て行く頃はすでに回りの子たちと遊びだしている。まだ慣れないうちは早めに迎えにきてくださいと言われて午後2時頃に迎えに行く。夕方にはタックんを迎えに行かなければならないので、1日で保育園まで3往復しなければならないことになる。

 一昨日などは、お昼に都内で仕事の打ち合わせがあったので、2人を送って行ったあと、電車で出かけて、用事を済ませてあわてて戻ってきた。それでも私の姿を認めると喜色満面で駆け寄ってくるアンを見ているとこちらも幸せな気分になる。

 ヒトシは2年生になり、小学校の授業も毎日5時限まであり、3時過ぎにわが家に帰ってくる。5時過ぎにはタックんを迎えに行き、レミママが仕事から帰って売るまで、3人で騒ぎまくる。しばらくおとなしいなと思っていると、だいたいろくなことはしていない。昨日は、アンは私の机に上に乗って、ノートパソコンやボールペンなどをいじっていた。だいたいどうやって上ったのか?

 私も病み上がりである。からだがだるく、立ち上がるのもおっくうなときもある。立ち上がれば今度は立ちくらみがする。呼吸が浅く苦しい。こんな体力でちびっこたちの相手がいつまでできることか。もう少しおとなしくしてくれといつも思うが、帰ってしまって静かになると、寂しくもある。 

【67】3兄妹そろって同じ保育園に [ほいくえん送迎記]

 タカシとレミママの息子夫婦の第3子はアンという名前の長女。生後1年になって保育園に申し込んだが、空きはなかった。これは織り込み済みで、レミママの職場も育児休暇を半年延長してもらった。そして今春4月入園の申し込みを再びした。マスメディア等でずいぶん報道もされたが、やはり結果が知らされるまではハラハラするものである。私もそばで見ながら気が気ではない。どういうしくみで保育園の入園者が決められるのかはわからない。さまざまな要素をポイント化して決めるそうだが、その配点のしくみはわからない。

 3人の孫はいずれも2回目の申し込みで市立の同じ保育園に行けることになったが、これは両親が共働きなのはもちろん、いずれもフルタイムで勤務していることが大きい要素だろうと思われる。それにしてもだ。こういう騒ぎ(働きたいのに、子供を預ける保育園の空きがない)をいつまで続けるのだろう。それとも一過性のものなのか。

 柴田悠著『子育て支援と経済成長』という新書を読んだ。欧米諸国の福祉政策などを歴史的・統計的に紹介しつつ、我が国の子育てに関する福祉・経済・税制的な施策の提案を行っている。子育て支援・保育に関する財政的支出はそれを上回る経済成長につながるということを説いている。

 女性の職場進出はサービス産業主流の日本経済において、やはり労働生産性を高めることは確実らしい。高齢者の労働参加もむろんプラスになるが。あとは移民政策だが、現実的に現場サイドでは徐々に増えてきているのは確かだが、ヨーロッパ並みに増やすということはとてもむずかしいだろう。そうすると、やはり女性(や高齢者)に職場参加・復帰してもらう以外にないのだ。となると女性の職場進出、少子化対策のためにも公的な子育て支援というのは絶対に必要になってくる。

 興味深いのはフランスでの出生率回復の決め手は、事実婚を認め婚外子への差別を撤廃するパクス制度でもなく、移民政策でもなく、認定保育ママ制度であったということだ。研修などによって資格を得たママさんが、個人的に数人の幼児を保育するという制度だ。

 なにはともあれ、わが家の孫3兄妹すべてが同じ保育園に通うことになった。そして意図せず3兄弟とも主に私が送迎することになった。これまで6年、そしてこれからあと5年である。私のような年代の男が送迎するのはやはり目立つもので、保育園ですっかり有名人になってしまった。昨年秋からの病欠のときは「おじいちゃん、お大丈夫ですか? おかげんはいかがですか?」とまわりからレミママがよく聞かれたそうだ。最近また送迎を再開したら、「お元気になられてよかったですね」とよく言われる。 




 

 

 

 

 

【66】1年生の耐寒マラソン [ほいくえん送迎記]

 一年のうち、一番寒いのが今の時期でしょう。関東地方南部はそれでもほかの地方に比べればずいぶんと恵まれています。トップニュースになるような大騒ぎの積雪などは年に一度あるかないかです。北陸東北地方が大雪で難儀している時期は、カラカラ天気で、真っ青な空が広がっています。ただそれでも風は冷たく、凍えるような日々が続きます。

 たまに風のないぽかぽか陽気の日が挟まることがあります。こんな日は散歩をします。メジロやツグミがエサをあさって木々を飛び交ったり、地べたをスキップしています。外は風でも、陽の光はサッシ窓を通ってきて部屋を暖めます。昔は、縁側でひなたぼっこ、押しくらまんじゅう、そしてたき火。よくやりましたね。子どもは風の子、なんて言って。青ばな垂らして。障子と板戸で、家の中はすきま風は吹いて、部屋の中はせいぜいが掘りごたつと火鉢。そういえばよく火事が起きてた。

 しもやけは誰でもやりました。手の甲が真っ赤になってぷくーっと腫れる。暖めるととてもかゆくなる。そのうち膿が出てくる。そう言えば昔はドクダミを干したのをできものなどによく使いました。おできもよくできた。膿を出すのが痛いながら気持ちよかったりして。子どもの頃のことでよく思い出すのは、フトンに入って寝るとき、母親がからだの周囲に沿ってフトンを踏んでくれる。冷たい空気が抜けて暖かくなる。朝になると軒先にまがんこ(つらら)が下がっている。

 年末あたりからヒトシの学校は持久走の練習をしていた。その本番が昨日あった。1年生の男子全体で25、6人だが、校庭を1周して校舎のまわりを走る。1年生とはいえ、競走である。ずいぶんスピードが出ている。ヒトシは校庭1週までは5、6番目につけていたが、ゴール時点で結局は11番であった。それでも真ん中よりは前であるから十分な結果である。がんばった。トップになれなかった子が悔し涙を流しているではないか。いいね。

 もう少し大きくなるとマラソンなんてと、斜に構えてぶらぶら走るやつも出てくるだろうが、それは多分に劣等意識から来る。やはり一生懸命走るのは見ていても気持ちがいい。そういうまっすぐな構えを崩さないでほしいね。

 話がまた揺れる。11月に退院してから、12月にまたいろんな検査をやり、その後の異常がないという確認をしてから、今月から「術後補助化学療法」というのを始めた。いわゆる抗がん剤ですな。ひと月あたり10日入院を4クールという長丁場である。あんまり気が進まない治療だが、医者の勧めもあり、後で後悔するよりは、という思いで受けることにした。

【65】年末年始、吉田拓郎、小椋佳、送迎再開 [ほいくえん送迎記]

 明けましておめでとうございます。だいたい年末年始は関東地方はいい天気が多いのだが、今年も(昨年末から)いい天気が続く。正月と言っても何もしないで、ごろごろしているだけであるが、今年は特にそうである。暮れの30日に大掃除らしきものをやって、サッシの窓ふきや照明器具の掃除をやったが、その影響か、まだ足腰の筋肉痛がする。この掃除にしても息づかいが大変で、ちょっと動いてはヒザに手を置いてハーハーやらなければならない。知らない人が見たらあきれてしまうだろう。

 その年末のある日、NHK吉田拓郎コンサートを中心にしたドキュメント番組をやっていた。吉田拓郎は現在70歳である。私より7歳年上になる。彼は肺がんを患ったことがあるので、その後の経過はどうなったのか、いつも気になっていた。調べたら2003年に手術をしている。当時、57歳で、私の1回目のときと同じ年である。その後、2007年にも再発か、と騒がれたが、この時は胸膜炎と気管支炎だったそうだ。これはWikiなどネットで調べただけなので、実際どうだったのかはわからない。わからないが、だいたいこういう経過だったのだろう。2007年のときは更年期障害、うつ症状も出たとされている。

 テレビで見ていると、やはり寄る年波と病気によるものか、顔つきもだいぶ年相応になってきている。表情や動きにもキレが少し鈍っているようにも見え、体重も減っているのだろうが、コンサートは「命がけでやる」という通り、力の入ったこれまでと同じ歌唱力で、感動的だ。でも、いまはまだ人生を語らず。

 また、つい先日にはTVで小椋佳が自分の胃がんのことを語っていた。これは日経の「私の履歴書」でも書いていたことだが、57歳の時で、胃を四分の三も取り、30キロもやせて、おかげで糖尿病が治ったとか。がんのおかげで長生きしているという。もうひとつ驚いたのは彼の次男が若年性脳梗塞を中学2年のときに患ったということだ。現在は日本中で数人しかいない琵琶づくりの職人だそうである。当たり前の話だが、順風満帆の人も人生万事無事の人もそういるものではないのである。
 
 暮れの28日は保育園最終日であったが、2ヶ月半ぶりにタックんをクルマで送って行った。担当の保育士さん2名が「お久しぶりです。お元気になられてよかったですね。これからまだまだ寒くなりますのでお体に気をつけて」と涙の出るような言葉をかけてくれた。

 末っ子(第3子女の子)が保育園入園が決まれば、レミママは4月から職場復帰するという。だから私も、1月からまた送迎を始めようと思う。ただ、抗がん剤治療も始めるので、4月までひと月に10日間入院しなければならない。まあ、先のことをいろいろ考えてもしようがない。その場その場で行動を決めていくしかない。今から先のことを決めてもまた変わるのだ。

 

【64】またやっちゃったメモ3 [ほいくえん送迎記]

 もうそろそろ退院の予定も入りだす頃になっても、37、8度の熱が続き、なかなか下がらない。おまけに不整脈が出た。これは自覚症状がなにもない。こういう手術をすると往々にして出るものらしい。循環器内科に回されて心電図とって薬を飲むようになった。おまけに携帯心電図読み取り無線装置(?)を24時間付けさせられた。ちょっとでも外れると看護士さんが飛んでくる。これが邪魔臭くてたまらない。

 熱に対しては、またレントゲン、血液、エコーなどの検査である。ところが内科の診断でもなんでもない。ただ、レントゲン検査で、肺の底にかすかな影が見える。ひょっとして肺炎? これはまずい。ところが痰も咳もでないので、確定できない。丸1週間抗生剤を点滴することになった。朝7時、昼2時、夜10時と1日3回。「これ1本いくらするんだろう?」と思わず考えてしまう。1週間経った頃やっと熱が下がりだした。肺炎かもしれないが、胸膜炎だろうということになった。X線画像では両者を判別できないのだ。

「抗生剤が効いてきたんですかね?」と医者に効くと「いや、単に自己治癒力かもしれません」という。ふつうほっといても治ることが多いのであるが、かといって何もしないで、悪化しても困るので、抗生剤の投与を決めたわけだ。肺炎が悪化したら最悪である。でも、こうやって薬剤耐性菌を増やして、院内感染のもとをつくっているのかもしれない。ただ、お年寄りなどの場合、こういうときの肺炎でこわいのは、誤嚥性肺炎である。年を取るのはやっかいなことである。

 熱も下がったので、退院だ。結局25日間の入院であった。11月11日、小雨の中をわが家へ帰ってきた。入院するまで74キロあった体重は68キロまで下がった。帰ってからさらに下がって現在65キロである。BM!は20以下になった。それにつれて血圧も下がって、上が100前後(90台が多い)、下が75くらいである。ずっと高血圧だったのが、適正を通り越して低血圧である。これでは体力がつかない。座っているときに何かの用を足すために立ち上がるまで10分もかかる。おっくうというのではない。体力気力がついていないのだ。立ち上がれば立ちくらみがする。果たして、以前の通りにとは言わないが、せめて8割くらいまで体力が回復するのにどれくらいかかるのか。

 退院して1ヶ月経ったが、散歩の距離も少しずつ長くなっていった。ただ、歩き出しの息の整え方がむずかしい。息苦しくて、ハーハーとなる。腹式呼吸を努めてはいるが、苦しさには勝てない。歩き出しを過ぎてペースに乗れば呼吸は楽になる。歩き終わりはまた苦しい。息の整え方が難しいのだ。こういうことを繰り返して行くしかない。

【63】またやっちゃったメモ2 [ほいくえん送迎記]

 保育園送迎はしばらくはレミママに代わってもらう。1歳になったばかりの末っ子(娘)を抱いての送迎はさぞ大変だろうとは思うが、なに、同じようなママさんは保育園でもよく見かける。これは私のためでもあるのだが、息子は電動機付きの送迎用(子供2人を乗せられる)自転車も買った。これがすぐれものらしい。むしろ車のほうがよほどめんどくさいので、雨でも降らない限りはレミママはすっかり愛用するようになった。
 
 さて、手術は19日の9時過ぎに始まった。麻酔が効いてくればあとはもう数時間後に目覚めるまで、まったく生きていないのと同じである。15時頃と思うが、意識が戻ると主治医のU医師が「悪いところは全部取りましたよ」と一番に伝えてくれた。左の上の部分を取る予定が、上の部分の一部と下部分全部を切除したという。そうしたほうが安全だという判断には納得したし、私の体力から見て、これでも十分QOLは保てるという判断でもある。これで私の肺は左右会わせておおよそ半分になった勘定になる。もちろん、ほっておけばすぐに寿命はつきるだろうし、手術をしてもだいたい命の長さは想像できる。

 担当の麻酔医のT女医とはその後も親しくなって、毎日のように私の病室をのぞいてくれた。「しばらくはね、富士山の頂上を歩いているようなものよ。息苦しくてしょうがないと思う。でも体力が回復するとともに少しずつよくなっていくよ」と言ってくれたが、とんでもない。退院したら、無酸素でエベレスト頂上にアタックしているような苦しさを味わうことになった。入院中はいたれりつくせりで、あんまり負荷を感じないようだ。

 前回は背中の肩甲骨の下を切開したが、今回は脇腹である。こちらのほうが回復後の動きがスムーズになるという。脇腹を切開して内視鏡やメスを入れると腕は上げっぱなしにして固定しなければならない。これが術後、麻酔が切れると大変な痛み(肩関節痛)となってかえってきた。切開あとの痛みどころではない。医者は肩の痛みなど関心がないようだが、すべての痛みのもとは肩だけなのである。湿布薬をもらって貼って、ひたすら肩をなでまわす。五十肩の痛みと同じかそれ以上である。

 肩の痛みがようやく収まってきた頃は便秘がやってきた。麻酔や咳止めの薬は腸の動きも弱らせるので、どうしても便秘になる。酸化マグネシウムが処方されているが、効くものではない。5日も経って娘よりずっと若い看護士にかき出してもらおうとしたが、うまくいかない。最後は浣腸である。これがやっと効いた。「10分がまんするんですよ」とかわいい看護士さんに言われて、トイレに入ったままがまんした。この看護士さんとは退院するとき、感謝の念を込めてしっかりと握手した。いつも思うのだが看護士さんのような職業の人たちのプロ根性にはいつも感嘆させられる。

 手術をした翌日、男の看護士さんが身体の隅々まで清拭してくれた。「いやあ、感心するね。えらいね」と言ったら、「いや、誰かがしなければならないことですから」と言ったあと「でも、いやいややってるんじゃないですよ」と笑いながら答えてくれた。失礼なことを言ったな、とあとで反省してしまった。

 ろくでもない話ばかりで恐縮だが、入院中の困りごとのひとつは不眠である。私はふだん便秘にも縁がないが、不眠にも悩まされることはない。しかし、入院中は何不自由ない代わりに運動不足のうえに点滴やら薬ばかり飲んでいるからどうしても夜眠れなくなる。秋でもあるし、こういうときはなぜか夜がすぐ来るし、9時には消灯である。入眠剤を頼めばくれるが、30分しか持たない。そのあとはよけい目が覚める。夜が明けるのをまって、朝食を食べて、薬を飲む。売店まで行って新聞を買ってきて読む。鎮痛剤が効いたところで少し眠れる。

【62】またやっちゃった [ほいくえん送迎記]

 丸2ヶ月、ごぶさたしました。病気でした。5年生存率がどうのとかいうあの病気です。このブログを始めるときに書いたように、東日本大震災の年の3月1日に前回の手術を受け、その入院中の11日に大震災を迎えたのでありました。そしてその年の4月から、ヒトシの保育園送迎を始めたのでした。

 前回のときはごく初期のもので、このステージの5年生存率は85%でした。ですから切り取ればそれで完治と思ったんですな。医者もそう言った。実際、退院以降、2週間、1ヶ月、3ヶ月ごとと間隔を空けながら、術後の検査および診察を律儀に受け続けてきましたが、その間、怪しげな影は差さず、無事、丸5年目を今年2016年の3月に迎えました。

「これからはどうしますか。これで終わりにしますか。それとも半年にいっぺん検査を続けますか?」と主治医に言われたので、「では半年ごとに来ます」と答えたものでした。そして最初の半年後の9月5日のレントゲン写真に怪しげな影が映っているではありませんか。

 ああ、それからはまたしても検査の嵐です。まず3日後の8日にCTスキャン。翌週の15日に結果を聞きに行って、受付(機械です)をしたら、診察前に心電図と肺活量を測定せよとの指示が出ている。これはすでに手術を予定しての指示だ。主治医の診察では「CT画像もよくない。とにかく手術を前提に検査を進めましょう」とその場で、MRI、PET、生検(気管支鏡)を予約を入れられた。

 MRIは脳、PETは脳や肝臓をのぞく全身の転移の有無の検査だ。できちゃったものはしかたがない、ということはすぐに覚悟できるが、これがどこかややこしいところに転移しているとなれば、覚悟も猶予なしの深刻なものになる。さっそく帰って、前回の「もしもノート」と取り出してきて、最新版を作る。そして今回は妻や息子夫婦にも正確に説明し、もしものときは、必要と考えられることは全部ここに書いてあるのでこのとおりにせよと伝える。

 幸いにして(何が!)転移は見つからなかった。気管支鏡検査はやはりクロ。ただし非小細胞タイプということで、ほんの少しは神様のお恵みがあった感じ。ということで、10月18日入院、翌日19日手術とフィックスされてしまった。なにしろ、私の肺活量4000とかで、「これだけあれば十分手術はできます。1000あればできますから」などと安心させる(何が!)。前回は右上、今回は左上である。だが、その場所が悪い。上から下にまたがっている。「こういう場合、左の全摘が確実ですが、dairoさんの場合、前回のこともありますし」と悩ましいように言うので、「全摘は避けてください。20年後ならともかく、この年で車いすに乗って酸素ボンベを吸っているなどという姿は考えたくありません。それなら死んだほうがましです」と答えた。今でもほんとにそう思っている。

 18日、タックんを保育園に送って行ったあと、入院すべくタクシーを電話で呼ぼうとしたのだが、「30分くらいかかります」などと平日の午前中らしからぬことを言う。「この時間はお年寄りの通院が多いんです」などと言い訳をしている。「ちくしょうめ。1割負担のヒマ老人が」などと1人毒づく(ごめんなさい)。ふだんなら自宅から病院まで40分歩くところだが、今日は荷物がある。しょうがない、自転車で病院まで駆けて行った。「こんな病気で自転車で入院する人なんて考えられない」とあとで息子に笑われた(あきれられた)。

 そして手術の朝が来た。


19.親愛なる扇山と君恋温泉 [(番外編4)私の山歩き]

 奥多摩からちょっとだけ外れるが、中央線沿線の扇山というよく通った山がある。中央線終点の高尾から中央本線に乗り継いで、子仏トンネルを抜けると相模湖、藤野、上野原、四方津、梁川と続いて鳥沢駅に着く。鳥沢の先は日本三大奇橋のひとつとして有名な猿橋のある猿橋駅、その先が大月駅である。

 鳥沢駅で降りて、北方へ1時間ほど歩くと梨の木平という扇山のふもとに着く。大月カントリークラブという有名ゴルフ場がある。何度も通うようになってからはタクシーを使うようになり、近年ではバスが週末に運行するようになったのでそれを利用するようになった。そこから扇山山頂までは1時間20分ほどであるから、実にわかりやすい簡単な山である。

 梨の木平から1時間ほど登ると稜線に出る。大久保のコルという鞍部である。扇山は右へ向かう。左へ向かうと大久保山という小高い丘で、その先が百蔵山である。この百蔵山と扇山を縦走することが多いが、今回は扇山だけにしよう。20分ほどなだらかの丘を登るように山頂に近づく。山道は広く気持ちのいいシラビソなど針葉樹の林である。

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 山頂は広場のように広い。遮るもののない南西の空に富士山がそびえている。われわれはここでよく宴会のようなランチを催した。10回以上は登っている。ここから下山するのは犬目の宿である。犬目は甲州街道にある宿場町である。葛飾北斎の富岳三十六景(下)でも有名だ。いまは静かな静かな集落になっている。犬目を経て大野貯水池へと向かう。舗装道路でただひたすら歩くばかりだが、この大野貯水池は冬には多くの渡り鳥が羽根を休めている。さらに歩くと、JR四方津駅に着く。

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 これが普通のコースだが、扇山から犬目に下りないで、途中から右手に折れて、君恋温泉に寄ることが多くなった。君恋温泉の名前のいわれはまだ調べていないが、その名前ほどはロマンチックではない。しかし、実に実にありがたい温泉なのである。森を抜けた畑の中に立つ一軒宿だが見かけは普通の民家である。お湯だけなら500円で入れる。(今はどうか知らない。)ビールを頼むとこんにゃくのミソ田楽を出してくれる。このうまいこと。鉱泉の風呂は2つあるが、お客さんが少ないと1つだけ沸かして、男女が交互に入る。

 宿の前には桜並木があり、春の満開の時期に桜と富士山が桃源郷のような姿を見せてくれる。風呂に入り、酒が入れば、もう歩く気はなくなる。宿の人に頼んで鳥沢からタクシーを呼んでもらって、鳥沢駅へと戻ることになる。まあ、年に1回くらいならこういうぜいたくも良しとしようではないか。

 いつだったか、この宿にストックを忘れたことがあった。電話するとちゃんと取ってあったので、翌週末また1人で同じコースを歩いて、湯に入ってストックを受け取って帰ってきたこともあった。そのときは1人だから四方津まで歩いて、駅前でワンカップを買っていい気持ちで帰ってきた。こんな山歩きもしていたのである。
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