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【72】耳に音がこもるーー耳管開放症だって [ほいくえん送迎記]

 からだのだるさは昨年10月手術以降ずっと続いており、座った状態から立ち上がるのさえ難儀である。ただ、立ち上がると同時に立ちくらみがするようなことはなくなってきた。風呂で湯槽につかった状態から立ち上がるのもなかなかむずかしかったが、これも多少はましになってきた。それと、耳に音がこもることも相変わらずだが、こちらも少しずつながら改善しているようである。

 耳の中に音がこもって、自分の声や呼吸音が響くのは健康な状態でもままあることであるが、私の場合、これがしょっちゅうなのである。おまけに耳鳴りもほぼ四六時中である。とくに夜、床についてからは「キ〜〜ン」とジェット戦闘機並みである。肺の腫瘍の場合、とくに骨と脳への転移が心配されるので、これはひょっとしたら脳転移じゃないかと本気で心配していた。

 6月にその骨(RI)と脳(MRI)への転移を調べたが、幸いなことに転移は今のところなさそうである。息苦しさは相変わらずであるが、こちらもいくらかはましになっているようにも思えるが、肺には気になる突起上の影があるらしく主治医は首を傾げている。最近はなんでもあけすけに患者に説明するので、聞きようによっては「ドキッ」とすることをいう。「9月にまた造影CTを撮りましょう。それで専門医(放射線診断医)に診てもらって、気になるようだったらまた生検しましょう」などとさらっと言うのである。(ちなみに、だが、この造影CTとRI、MRIを撮ると3割負担でも3万円はかかる。ときどき、医者はそういう費用のことは考えて指示してるのかなと、ちらっ、とだが思うことがある。もちろん私なぞまだめぐまれているほうであるが。)

 でももうこちらもだいぶ覚悟ができてきた。いろいろ素人考えをしてもなるようにしかならないのである。診察は3ヶ月に一度でいいと言うからにはそう切迫しているのではなかろう。ただ、耳に音がこもるのはなんとかならぬものかとネットで調べたら、「耳管開放症」という言葉が見つかった。病気ダイエットなどで急に体重が落ちた人などに出るそうで、耳の奥と鼻とをつなぐ耳管が開きっぱなしになると、自分の声が外気を通さずに直接中耳に入り、こういう症状が出るらしい。筋肉脂肪が落ちることでこういうことが起きるそうだ。対処療法として腰を前に折って頭を下げると、血流が下がってうっ血状態になるので一時的にせよ耳管が塞がり症状がおさまる。やってみるとなるほどそうなった。だが、やはり抜本的には体重を戻すしかない。

 先週末、猫額畑を見に行くと雑草だらけになっていたが、ナスもゴーヤも稔りがあり、ひまわりも大輪の花を咲かせていた。これはうれしい。

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【71】豪雨被害と父の様子 [ほいくえん送迎記]

 私がその場にいたわけではないが、私の姉や姪、友人たちが異口同音にその雨のすごさを電話口で語っていた。「バケツをひっくり返したような」「滝のような」「今まで経験したことのない」といろんな言葉で形容される九州北部の豪雨である。雨がひどくなったのが7月5日の午後から夜にかけてである。たまたまであるが、姉、姪、友人が同じ頃にそれぞれのクルマで帰宅している最中だった。姪と友人は、あっという間に冠水し、水かさを増した道路にクルマを放置して歩いて帰るしかなかった。2人よりは早い時刻だったので、姉だけはクルマを運転してなんとかのろのろと帰り着いた。「前はなーんも見えんとばい。おそろしかった」そうである。

 私の故郷は今回の豪雨ですっかり有名になった福岡県の朝倉市である。平成の大合併で、私の生まれた朝倉郡朝倉町、同杷木町、甘木市が合併して朝倉市となった。今回、朝倉市、日田市と並んで被害地域として大きく報道されている東峰村はもと朝倉郡小石原村と同宝珠山村である。実は、甘木市も元々は朝倉郡なのであるが、この地域の商業の中心地で人口も一番多い地域であり、いち早く独立し市制を敷いたのである。平成の合併のときは古代以来の伝統のある朝倉の地名を踏襲したというわけである。私の出身高校は旧甘木市の中心地にあるが、当時も今も朝倉高校という。

 今回もっとも被害が大きいのがこの元甘木市と元杷木町、そして日田市の山間部であるが、元朝倉町にも人的被害も含めて甚大な被害が出ている。私の出身中学校である比良松中学校も被害が大きく報道された。元朝倉町は筑後川中流域に開けた扇状地で、稲作や柿、そして万能ネギなどの商品作物生産がさかんな農作地帯だが、今回の被害の中心地域はその筑後平野の背後にある山間部である。過疎化が進み、ダム建設などもあり市街地へ移り住む人も多く、空き家も目立つ。そこへ豪雨が襲ったのである。「16億円かけた道路が3時間の雨で流された」と地元出身の友人は言う。

 実はその豪雨の5日前に朝倉市に帰省し3日前に自宅に戻ってきていた。高齢の父が心臓が弱り、入院したというので、とりあえず様子見に帰ったのである。94歳になる父は足腰が弱っていはいたが、みんながやめさせようとしていたクルマの運転もしていた。ところがここへきて2度ほど事故を起こし、大事には至らなかったのが幸いだったが、いよいよ免許を返納したところだった。医者の診断によると「心不全」である。若くて体力があれば手術して処置することもできるが、さすがにそれはやめましょうということになり、当面は入院しながらリハビリを続けることになった。

 豪雨とこの暑さである。当面は入院を続けるしかないのだが、立ち上がり、歩くことができなくなった。ときに認知症の症状も現れる。しばらくは食欲もなくなっていたが、ここ数日は回復し、ベッドの上で身体を起こすことまではできるようになった。ここからどういう経過をたどることになるのか、これからしばらくは私自身の病状もあり、なんというか、勝負所にさしかかってきたようである。

 

【70】連休と3人の子ツバメ [ほいくえん送迎記]

 乙鳥はまぶしき鳥となりにけり 草田男
 一番に乙鳥のくぐるちのわ哉  一茶

 ツバメが飛び交う季節になった。わが家の3人の子ツバメたちも連休に入って、時間をもてあまし気味で、昨日などは、流行りのベイブレードをめぐって2人の兄弟はケンカを繰り返すので、とうとう全部取り上げて手の届かないところへしまい込んでしまった。もう泣こうがわめこうが、与えないことにした。ヒトシはショックで夕食も食べずに外へ出て行ってしまった。

 ああいう子ども相手のおもちゃのマーケティングというのはなるほど周到で、いろんなしかけで子どもたちの欲望を刺激する。テレビのアニメなどもまったくマーケティングそのもので、売らんかな一色である。もっと幼い頃に電車やミニカーなどをほしがっていた頃のほうが精神衛生的にはよほどまともである。

 ヒトシは私の家にくると真っ先にパソコン(iMac)の前に座り、ユーチューブのなんだかわけのわからない(気色悪い)怪獣の出てくるCGなどを見ている。これもまだ小さい頃は電車や新幹線を見て喜んでいたのであるが、いつのまにかブラウザを開き、ユーチューブを見ることを覚えてから次々に案内される刺激的なCGをクリックするようになった。

 ヒトシ用のアカウントをつくり、制限時間を1時間に設定しているが、1時間なぞはあっという間なので、隣に並んでいるウインドウズ用のノートパソコンを開こうとするが、こちらもしっかりパスワードをかけているので、開くことはできない。わたしがパソコンを立ち上げているところを見て、パスワードを覚えようとしているが、まだアルファベットを憶えるほどの能力はない。

 連休で保育園送迎もお休みなので、陽気に誘われて散歩する。ツツジ、コデマリ、オオデマリ、ヤマブキなどが花盛りだ。やはり息切れがして苦しい。鼓動も速くなる。いつになったらラクに歩けるようになるのか。それとももう無理なのか。考えても詮無いことだが、つい悲観的になってしまう。



 

 

 

【69】これまで6年。これから5年。 [ほいくえん送迎記]

 新年度が始まってちょうど1ヵ月が過ぎた。ヒトシは2年生になって、毎日重いランドセルを背負って小学校に通い、レミママが育児休暇を終えて勤めに復帰したので、毎日私の家へと帰ってくるようになった。週のうち2回は4時から2時間ほど、すぐ近所にあるくもん教室に通い、1回はこれも歩いてすぐのスイミングスクールに通っている。スイミングは保育園を卒園したら「行きたい!」と自分から言い出したものである。

 朝7時過ぎにタカシがタックンとアンを私の家に連れてくる。7時40分頃に私が2人を保育園に送っていく。最近流行りの電動自転車に2人を乗せる。これはすぐれもので、2人を乗せてギアをトップ(3)にしてもラクに坂道を登る。車だと、駐車場に行って、チャイルドシートに乗せて、渋滞する幹線道路をのろのろと走るので、自転車よりずいぶんと時間がかかる。だから雨の日以外はこの電動自転車だ。ただし、夕方の迎えは車を使う。というのも病み上がりのわが身では夕方にもなると、身体がだいぶ重くなる。

 こうやってまた入院・手術前の送迎習慣に戻った。毎日が過ぎるのが実に速い。わずかではあるが仕事も抱えていて、わずかな収入もある。いろんな意味で仕事だけは続けたいのだ。ただ、身体のだるさはなかなか改善しないし、体重もいっかな増えない。再発の心配も絶えずある。でもこればかりはどんなに心配してもなるようにしかならない。

 娘が結婚前に使っていた部屋をすっかり自分の仕事場にしてしまった。ずっと以前、タカシに買ってあげていたが使っていなかったスピーカーセットとアンプを据えて、AMAZONで極安の中古CD&MDプレーヤー(SONY、15000円!)を買い、パソコンもアンプに接続してCD、MD、iTunes、ネットのFMやNAXOSなどを鳴らしている。これで、閉じこもりでもまったく不自由しなくなった。

 昨年夏から始めて、途中、病気で半年中断していたラジオ体操を4月からまた始めた。身体のだるさがあって朝はつらいのだが、季候もよくなったので続けられている。第一が終わる頃は、ゼーゼーハーハーとなり、第2が終わると、しゃがみ込みたくなる。でもご近所さんが大勢さん毎朝顔を合わせるので、休むとまた要らぬ心配をさせるのではないかと要らぬ心配をしている今日この頃だ。毎日5時半に起きるようになって、夜も9時半には寝るようになった。まったくの老人習慣である。アルコールももう半年以上まったく飲んでいない。

 つい先日、アンが保育園で8度以上の熱を出し、昼に引き取りに行った。呼び出しは久しぶりだ。帰ってきてひと眠りさせたらすぐに平熱に戻った。大人と一緒でこの頃が疲れが出る頃だろう。ちょうど連休も始まって、しばらく休めるのでいいタイミングだ。

 これもつい先日。長い付き合いのなじみの時間外の保育士さんに、「あら、また、おじいちゃん。ご活躍ですね」と言われてしまった。そうだよ。もうあれから6年過ぎた。このまま行けばあと5年は通うことになる。それまでは生きていなくては。




【68】満開の桜の下で [ほいくえん送迎記]

 今年の桜は長く散らずに残っている。わが家の回りも桜並木が花盛り。ソメイヨシノ、オオシマザクラ、と色もいろいろ。そろそろ八重桜も咲く頃だ。孫3兄妹も元気に小学校と保育園に通っている。末のアンは保育園に通いだして2週め。上2人んもそうだったように、保育士さんにわたそうとすると、最初は大泣きしてしがみつく。かわいそうでこちらまで涙ぐむほどだが、なに、1週間もすると慣れてきて、みんなと遊んだり、昼寝をしたり。

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 アンも次第に慣れてはきているが、まだ、朝、別れるときはギャーと泣く。しかしその泣きかたもだんだん短くなって、私が部屋を出て行く頃はすでに回りの子たちと遊びだしている。まだ慣れないうちは早めに迎えにきてくださいと言われて午後2時頃に迎えに行く。夕方にはタックんを迎えに行かなければならないので、1日で保育園まで3往復しなければならないことになる。

 一昨日などは、お昼に都内で仕事の打ち合わせがあったので、2人を送って行ったあと、電車で出かけて、用事を済ませてあわてて戻ってきた。それでも私の姿を認めると喜色満面で駆け寄ってくるアンを見ているとこちらも幸せな気分になる。

 ヒトシは2年生になり、小学校の授業も毎日5時限まであり、3時過ぎにわが家に帰ってくる。5時過ぎにはタックんを迎えに行き、レミママが仕事から帰って売るまで、3人で騒ぎまくる。しばらくおとなしいなと思っていると、だいたいろくなことはしていない。昨日は、アンは私の机に上に乗って、ノートパソコンやボールペンなどをいじっていた。だいたいどうやって上ったのか?

 私も病み上がりである。からだがだるく、立ち上がるのもおっくうなときもある。立ち上がれば今度は立ちくらみがする。呼吸が浅く苦しい。こんな体力でちびっこたちの相手がいつまでできることか。もう少しおとなしくしてくれといつも思うが、帰ってしまって静かになると、寂しくもある。 

【67】3兄妹そろって同じ保育園に [ほいくえん送迎記]

 タカシとレミママの息子夫婦の第3子はアンという名前の長女。生後1年になって保育園に申し込んだが、空きはなかった。これは織り込み済みで、レミママの職場も育児休暇を半年延長してもらった。そして今春4月入園の申し込みを再びした。マスメディア等でずいぶん報道もされたが、やはり結果が知らされるまではハラハラするものである。私もそばで見ながら気が気ではない。どういうしくみで保育園の入園者が決められるのかはわからない。さまざまな要素をポイント化して決めるそうだが、その配点のしくみはわからない。

 3人の孫はいずれも2回目の申し込みで市立の同じ保育園に行けることになったが、これは両親が共働きなのはもちろん、いずれもフルタイムで勤務していることが大きい要素だろうと思われる。それにしてもだ。こういう騒ぎ(働きたいのに、子供を預ける保育園の空きがない)をいつまで続けるのだろう。それとも一過性のものなのか。

 柴田悠著『子育て支援と経済成長』という新書を読んだ。欧米諸国の福祉政策などを歴史的・統計的に紹介しつつ、我が国の子育てに関する福祉・経済・税制的な施策の提案を行っている。子育て支援・保育に関する財政的支出はそれを上回る経済成長につながるということを説いている。

 女性の職場進出はサービス産業主流の日本経済において、やはり労働生産性を高めることは確実らしい。高齢者の労働参加もむろんプラスになるが。あとは移民政策だが、現実的に現場サイドでは徐々に増えてきているのは確かだが、ヨーロッパ並みに増やすということはとてもむずかしいだろう。そうすると、やはり女性(や高齢者)に職場参加・復帰してもらう以外にないのだ。となると女性の職場進出、少子化対策のためにも公的な子育て支援というのは絶対に必要になってくる。

 興味深いのはフランスでの出生率回復の決め手は、事実婚を認め婚外子への差別を撤廃するパクス制度でもなく、移民政策でもなく、認定保育ママ制度であったということだ。研修などによって資格を得たママさんが、個人的に数人の幼児を保育するという制度だ。

 なにはともあれ、わが家の孫3兄妹すべてが同じ保育園に通うことになった。そして意図せず3兄弟とも主に私が送迎することになった。これまで6年、そしてこれからあと5年である。私のような年代の男が送迎するのはやはり目立つもので、保育園ですっかり有名人になってしまった。昨年秋からの病欠のときは「おじいちゃん、お大丈夫ですか? おかげんはいかがですか?」とまわりからレミママがよく聞かれたそうだ。最近また送迎を再開したら、「お元気になられてよかったですね」とよく言われる。 




 

 

 

 

 

【66】1年生の耐寒マラソン [ほいくえん送迎記]

 一年のうち、一番寒いのが今の時期でしょう。関東地方南部はそれでもほかの地方に比べればずいぶんと恵まれています。トップニュースになるような大騒ぎの積雪などは年に一度あるかないかです。北陸東北地方が大雪で難儀している時期は、カラカラ天気で、真っ青な空が広がっています。ただそれでも風は冷たく、凍えるような日々が続きます。

 たまに風のないぽかぽか陽気の日が挟まることがあります。こんな日は散歩をします。メジロやツグミがエサをあさって木々を飛び交ったり、地べたをスキップしています。外は風でも、陽の光はサッシ窓を通ってきて部屋を暖めます。昔は、縁側でひなたぼっこ、押しくらまんじゅう、そしてたき火。よくやりましたね。子どもは風の子、なんて言って。青ばな垂らして。障子と板戸で、家の中はすきま風は吹いて、部屋の中はせいぜいが掘りごたつと火鉢。そういえばよく火事が起きてた。

 しもやけは誰でもやりました。手の甲が真っ赤になってぷくーっと腫れる。暖めるととてもかゆくなる。そのうち膿が出てくる。そう言えば昔はドクダミを干したのをできものなどによく使いました。おできもよくできた。膿を出すのが痛いながら気持ちよかったりして。子どもの頃のことでよく思い出すのは、フトンに入って寝るとき、母親がからだの周囲に沿ってフトンを踏んでくれる。冷たい空気が抜けて暖かくなる。朝になると軒先にまがんこ(つらら)が下がっている。

 年末あたりからヒトシの学校は持久走の練習をしていた。その本番が昨日あった。1年生の男子全体で25、6人だが、校庭を1周して校舎のまわりを走る。1年生とはいえ、競走である。ずいぶんスピードが出ている。ヒトシは校庭1週までは5、6番目につけていたが、ゴール時点で結局は11番であった。それでも真ん中よりは前であるから十分な結果である。がんばった。トップになれなかった子が悔し涙を流しているではないか。いいね。

 もう少し大きくなるとマラソンなんてと、斜に構えてぶらぶら走るやつも出てくるだろうが、それは多分に劣等意識から来る。やはり一生懸命走るのは見ていても気持ちがいい。そういうまっすぐな構えを崩さないでほしいね。

 話がまた揺れる。11月に退院してから、12月にまたいろんな検査をやり、その後の異常がないという確認をしてから、今月から「術後補助化学療法」というのを始めた。いわゆる抗がん剤ですな。ひと月あたり10日入院を4クールという長丁場である。あんまり気が進まない治療だが、医者の勧めもあり、後で後悔するよりは、という思いで受けることにした。

【65】年末年始、吉田拓郎、小椋佳、送迎再開 [ほいくえん送迎記]

 明けましておめでとうございます。だいたい年末年始は関東地方はいい天気が多いのだが、今年も(昨年末から)いい天気が続く。正月と言っても何もしないで、ごろごろしているだけであるが、今年は特にそうである。暮れの30日に大掃除らしきものをやって、サッシの窓ふきや照明器具の掃除をやったが、その影響か、まだ足腰の筋肉痛がする。この掃除にしても息づかいが大変で、ちょっと動いてはヒザに手を置いてハーハーやらなければならない。知らない人が見たらあきれてしまうだろう。

 その年末のある日、NHK吉田拓郎コンサートを中心にしたドキュメント番組をやっていた。吉田拓郎は現在70歳である。私より7歳年上になる。彼は肺がんを患ったことがあるので、その後の経過はどうなったのか、いつも気になっていた。調べたら2003年に手術をしている。当時、57歳で、私の1回目のときと同じ年である。その後、2007年にも再発か、と騒がれたが、この時は胸膜炎と気管支炎だったそうだ。これはWikiなどネットで調べただけなので、実際どうだったのかはわからない。わからないが、だいたいこういう経過だったのだろう。2007年のときは更年期障害、うつ症状も出たとされている。

 テレビで見ていると、やはり寄る年波と病気によるものか、顔つきもだいぶ年相応になってきている。表情や動きにもキレが少し鈍っているようにも見え、体重も減っているのだろうが、コンサートは「命がけでやる」という通り、力の入ったこれまでと同じ歌唱力で、感動的だ。でも、いまはまだ人生を語らず。

 また、つい先日にはTVで小椋佳が自分の胃がんのことを語っていた。これは日経の「私の履歴書」でも書いていたことだが、57歳の時で、胃を四分の三も取り、30キロもやせて、おかげで糖尿病が治ったとか。がんのおかげで長生きしているという。もうひとつ驚いたのは彼の次男が若年性脳梗塞を中学2年のときに患ったということだ。現在は日本中で数人しかいない琵琶づくりの職人だそうである。当たり前の話だが、順風満帆の人も人生万事無事の人もそういるものではないのである。
 
 暮れの28日は保育園最終日であったが、2ヶ月半ぶりにタックんをクルマで送って行った。担当の保育士さん2名が「お久しぶりです。お元気になられてよかったですね。これからまだまだ寒くなりますのでお体に気をつけて」と涙の出るような言葉をかけてくれた。

 末っ子(第3子女の子)が保育園入園が決まれば、レミママは4月から職場復帰するという。だから私も、1月からまた送迎を始めようと思う。ただ、抗がん剤治療も始めるので、4月までひと月に10日間入院しなければならない。まあ、先のことをいろいろ考えてもしようがない。その場その場で行動を決めていくしかない。今から先のことを決めてもまた変わるのだ。

 

【64】またやっちゃったメモ3 [ほいくえん送迎記]

 もうそろそろ退院の予定も入りだす頃になっても、37、8度の熱が続き、なかなか下がらない。おまけに不整脈が出た。これは自覚症状がなにもない。こういう手術をすると往々にして出るものらしい。循環器内科に回されて心電図とって薬を飲むようになった。おまけに携帯心電図読み取り無線装置(?)を24時間付けさせられた。ちょっとでも外れると看護士さんが飛んでくる。これが邪魔臭くてたまらない。

 熱に対しては、またレントゲン、血液、エコーなどの検査である。ところが内科の診断でもなんでもない。ただ、レントゲン検査で、肺の底にかすかな影が見える。ひょっとして肺炎? これはまずい。ところが痰も咳もでないので、確定できない。丸1週間抗生剤を点滴することになった。朝7時、昼2時、夜10時と1日3回。「これ1本いくらするんだろう?」と思わず考えてしまう。1週間経った頃やっと熱が下がりだした。肺炎かもしれないが、胸膜炎だろうということになった。X線画像では両者を判別できないのだ。

「抗生剤が効いてきたんですかね?」と医者に効くと「いや、単に自己治癒力かもしれません」という。ふつうほっといても治ることが多いのであるが、かといって何もしないで、悪化しても困るので、抗生剤の投与を決めたわけだ。肺炎が悪化したら最悪である。でも、こうやって薬剤耐性菌を増やして、院内感染のもとをつくっているのかもしれない。ただ、お年寄りなどの場合、こういうときの肺炎でこわいのは、誤嚥性肺炎である。年を取るのはやっかいなことである。

 熱も下がったので、退院だ。結局25日間の入院であった。11月11日、小雨の中をわが家へ帰ってきた。入院するまで74キロあった体重は68キロまで下がった。帰ってからさらに下がって現在65キロである。BM!は20以下になった。それにつれて血圧も下がって、上が100前後(90台が多い)、下が75くらいである。ずっと高血圧だったのが、適正を通り越して低血圧である。これでは体力がつかない。座っているときに何かの用を足すために立ち上がるまで10分もかかる。おっくうというのではない。体力気力がついていないのだ。立ち上がれば立ちくらみがする。果たして、以前の通りにとは言わないが、せめて8割くらいまで体力が回復するのにどれくらいかかるのか。

 退院して1ヶ月経ったが、散歩の距離も少しずつ長くなっていった。ただ、歩き出しの息の整え方がむずかしい。息苦しくて、ハーハーとなる。腹式呼吸を努めてはいるが、苦しさには勝てない。歩き出しを過ぎてペースに乗れば呼吸は楽になる。歩き終わりはまた苦しい。息の整え方が難しいのだ。こういうことを繰り返して行くしかない。

【63】またやっちゃったメモ2 [ほいくえん送迎記]

 保育園送迎はしばらくはレミママに代わってもらう。1歳になったばかりの末っ子(娘)を抱いての送迎はさぞ大変だろうとは思うが、なに、同じようなママさんは保育園でもよく見かける。これは私のためでもあるのだが、息子は電動機付きの送迎用(子供2人を乗せられる)自転車も買った。これがすぐれものらしい。むしろ車のほうがよほどめんどくさいので、雨でも降らない限りはレミママはすっかり愛用するようになった。
 
 さて、手術は19日の9時過ぎに始まった。麻酔が効いてくればあとはもう数時間後に目覚めるまで、まったく生きていないのと同じである。15時頃と思うが、意識が戻ると主治医のU医師が「悪いところは全部取りましたよ」と一番に伝えてくれた。左の上の部分を取る予定が、上の部分の一部と下部分全部を切除したという。そうしたほうが安全だという判断には納得したし、私の体力から見て、これでも十分QOLは保てるという判断でもある。これで私の肺は左右会わせておおよそ半分になった勘定になる。もちろん、ほっておけばすぐに寿命はつきるだろうし、手術をしてもだいたい命の長さは想像できる。

 担当の麻酔医のT女医とはその後も親しくなって、毎日のように私の病室をのぞいてくれた。「しばらくはね、富士山の頂上を歩いているようなものよ。息苦しくてしょうがないと思う。でも体力が回復するとともに少しずつよくなっていくよ」と言ってくれたが、とんでもない。退院したら、無酸素でエベレスト頂上にアタックしているような苦しさを味わうことになった。入院中はいたれりつくせりで、あんまり負荷を感じないようだ。

 前回は背中の肩甲骨の下を切開したが、今回は脇腹である。こちらのほうが回復後の動きがスムーズになるという。脇腹を切開して内視鏡やメスを入れると腕は上げっぱなしにして固定しなければならない。これが術後、麻酔が切れると大変な痛み(肩関節痛)となってかえってきた。切開あとの痛みどころではない。医者は肩の痛みなど関心がないようだが、すべての痛みのもとは肩だけなのである。湿布薬をもらって貼って、ひたすら肩をなでまわす。五十肩の痛みと同じかそれ以上である。

 肩の痛みがようやく収まってきた頃は便秘がやってきた。麻酔や咳止めの薬は腸の動きも弱らせるので、どうしても便秘になる。酸化マグネシウムが処方されているが、効くものではない。5日も経って娘よりずっと若い看護士にかき出してもらおうとしたが、うまくいかない。最後は浣腸である。これがやっと効いた。「10分がまんするんですよ」とかわいい看護士さんに言われて、トイレに入ったままがまんした。この看護士さんとは退院するとき、感謝の念を込めてしっかりと握手した。いつも思うのだが看護士さんのような職業の人たちのプロ根性にはいつも感嘆させられる。

 手術をした翌日、男の看護士さんが身体の隅々まで清拭してくれた。「いやあ、感心するね。えらいね」と言ったら、「いや、誰かがしなければならないことですから」と言ったあと「でも、いやいややってるんじゃないですよ」と笑いながら答えてくれた。失礼なことを言ったな、とあとで反省してしまった。

 ろくでもない話ばかりで恐縮だが、入院中の困りごとのひとつは不眠である。私はふだん便秘にも縁がないが、不眠にも悩まされることはない。しかし、入院中は何不自由ない代わりに運動不足のうえに点滴やら薬ばかり飲んでいるからどうしても夜眠れなくなる。秋でもあるし、こういうときはなぜか夜がすぐ来るし、9時には消灯である。入眠剤を頼めばくれるが、30分しか持たない。そのあとはよけい目が覚める。夜が明けるのをまって、朝食を食べて、薬を飲む。売店まで行って新聞を買ってきて読む。鎮痛剤が効いたところで少し眠れる。

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