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【44】時間外保育とオリンピック [ほいくえん送迎記]

 レミママは(予定日は来月初めだが)、先月末から産休中である。どうやら待望の女の子らしい。先週、定期の診察で超音波を見たら、あくびしていたとか。そういうのんびりした子だといいが。上のふたりの暴れん坊がどういうふうに変わっていくかも楽しみではある。ママがこういう様子なので、タックンがどうもナーバスになっている。それでなくとも癇性っぽいのだが、さらにその程度が増しているように見える。

 母親が産休・育休に入ると、時間外保育というのが不可になる。所沢市は、育児休暇に入る場合、先に入園していた兄姉(0~2歳)を退園させるということで話題(問題)になったが、当市の場合はそこまではいかない。ただ、休暇で家にいるのだから、時間内(9時〜17時)はともかく時間外は引き受けないということなんだろう。

 公務員の制度ゆえか、時間外には時間外勤務の保育士さんが朝夕来てくれている。そういう時間外の保育士さんたちの人件費も含めて、少しでも財政的な負担を減らしたいということでもあろうし、待機児童をもつ親御さんの手前もあるのかもしれない。もう少し融通がきいてもいいと思うのだが、このへんのお役所の論理はまだ私は理解できていない。そのへんのルールが理解できないままだと、怒られそうなことを言ったりやったりするので慎重にしなければならない。

 閑話休題。話は違うようで違わなくもない。それにつけても腹が立つのはオリンピック関連の不手際である。巨額の税金が絡んでいるのである。新国立競技場に続いてあのエンブレムとやらもやり直しだそうだ。2回目の東京オリンピックは前途多難である。政治家・自治体はもちろん、建設・観光をはじめとする産業界、そしてデンツーとかハクホウドーとかいうギョーカイの人びとをはじめ、どうやって儲けようかと考えているばかりの人たちがはしゃぎ回るものだから、こうやって世界中に恥をまき散らすことになる。恥だけならまだしも、何十億とも言われる税金が虚空に消えてしまった。

 ソレとコレとは違うと言われそうだが、こういうお金が待機児童対策などの保育や福祉行政に使われていたらと、自分の関心のある事項に結びつけて考えてしまう。そしてごくふつうに必要に応じて子供を保育園に通わせることができるようになればと思うのだが。もちろんちゃんと負担すべきものは負担してですよ。

 蛇足ながら、私としては、前回のオリンピックの時の亀倉雄策さんのポスター(エンブレム?)と古関裕而さん作曲のオリンピックマーチをぜひ今回も使っていただきたい。ま、今風にアレンジしてもいいですけどね。それと、今回の件とは直接関係ないけど、鈴木大地さん、期待!

 まったくまとまりのないお話でした。反省しています。
(写真は前回と同じ。穂高連峰)

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【43】「これまでに経験したことのない」ような雨が降った [ほいくえん送迎記]

 関東地方の東部は台風の影響で「これまでに経験したことのない」ような大雨である(9/10)。私の住む鎌ケ谷市では、ゆうべも夜通し雨で、さすがにこの振り方は異常で、ちょっとコワい感じまでした。真夜中から夜明けにかけて、防災無線と携帯電話のエリアメールが、土砂災害警戒警報→(市内の急傾斜地崩壊危険箇所周辺に対して)避難勧告→避難指示と広報し、にぎやかなこと。いやはやこれでは眠れない。

 ふつうは低気圧も台風(熱帯低気圧の強いやつ)もだいたい西のほうからやってくる。だから「夕焼けは晴れ」というのは、西の空に雲がなければ明日は晴れるぞ、ということだろう。ただ、関東地方は西のほうに富士山やら日本アルプスやら高い山が南北に連なっているので、西からやってくる台風の影響が比較的少ない、ということかもしれない。もちろんこれは素人の想像だが、九州や西日本に比べれば確かに台風の被害は少ないように思う。

 ところが今回の台風18号は南からまっすぐさえぎるものなしに関東にやってきた。しかも、太平洋からたんまりと湿気を連れてきた。これが数日前から関東地方を水浸しにしている。風は吹いていないが、ただひたすらザーザーと夜通し止み間なく降り続く雨は不気味なものがある。まだ今(10日13時)も雨は降り続いている。この雨が上がると、台風一過、天高く馬肥ゆる秋になるか、それとも残暑のぶり返しが来るか。

 今朝は、雨の中ヒトシとタックンを車で送っていった。出るときはさほどではなかったが、途中からザーザー降りになって、ワイパーのスピードをいつもより上げなければならなくなった。しかも渋滞で動けない。やっと東武電車の踏切を越えたと思ったら、その先がまた渋滞。こういうときはあわててもしょうがない。なるようにしかならない。ちびっ子2人は、どこで憶えたか「カンスイ(冠水)だ、カンスイだ」とはしゃいでいる。ほんとうに冠水したら、これは恐怖だな。でも大したことがなくてよかった。

 先週末は土日とヒトシのお泊まり会とやらで、タカシと2人で手賀沼湖畔にある「千葉県立手賀の丘少年自然の家」というところへ車で出かけていった。これは保育園最終年の夏に保護者会主催でやる行事だそうだ。タカシは日頃、仕事優先であんまり保育園にはかかわらないものだから、こういうときに点数稼ぎを思い立ったらしい。

 私も小さいときにはこういう経験は必要だと思っているが、テントを張って、またはバンガローに寝泊まりして、自炊で、夜はキャンプファイアーで……というのとは違うらしい。立派な宿舎に1泊2食で帰ってきた。保育園児だからね。そんなもんだろう。まあ、それでもたまには違う環境で過ごすのはいい思い出になるだろう。なににしろ先週は台風が来なくてよかった。
(写真は北穂高岳から奥穂高岳への縦走路。むか~しの写真)

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〈8〉事業の拡大、牛肉輸入自由化、狂牛病 [再び寄り道1953~]

 父の仕事は、次第にスケールを増して、80年代に入った頃、飼料を加工する工場まがいの作業所を建てるところまできた。穀物商社から輸入トウモロコシなどを仕入れて、家畜の飼料を作る。この頃には兄が結婚し、一緒に仕事をするようになった。本家の従兄弟も雇って手伝ってもらうようになった。そのころは減反政策やら兼業農家の増加やらで精米所の仕事もだんだん減ってきて(農家がスーパーで野菜を買う時代である!)、母が片手間でこなすぐらいであった。

 私も帰省したときなどに一緒に飼料の配達につき合ったことがあるが、畜産農家の牧場、養豚場、養鶏場などはだいたいが山の中である。くねくねと山道を登った先にあることが多い。牛、豚、鶏、馬(食肉用)、七面鳥などもある。配達も大変だが、集金も大変である。もっともっと大変なことも起こった。90年代から始まった牛肉の輸入自由化の波である。今回のTPP交渉でもアメリカの豚肉の自由化攻勢はすさまじいものがあるようだが、当時は牛肉だった。よほどの高級和牛を生産する畜産農家以外は成り立つわけがない。つれて、わが家のような零細加工業者も次第に先細りになっていく。

 そして2000年代初めの狂牛病問題が追い打ちをかけた。あれは何だったんだろうかと今でも思うのだが、なぜに日本人はあれほどまでに大騒ぎするのか。重大な問題には違いないが、なぜに日本中がパニックになったように右往左往するのか。畜産農家はもとより、日本中で焼き肉屋が閑古鳥が鳴くようになり、潰れた店も多い。鳥インフルエンザが問題になったときは、養鶏の大量死を通報せずに鶏を出荷したとして、兵庫県の養鶏業者が袋だたきに遭ったことがある。あわれ経営者夫婦は首をくくってしまった。新聞テレビなどのセンセーショナルで執拗な報道が人を追い詰めたり、まじめな業者を廃業に追い込んだりする。騒ぎすぎなのである。しかもマスメディアは時間が経つとすぐに古くなった事件を忘れて次の獲物を探し出す。冷静に事実のみを報道すればいいのに、といつも思う。

 話がうんと逸れてしまった。申し訳ない。そうやってわが家の事業も次第に縮小せざるを得なくなってしまった。ただ、もうその頃には父はもちろん超後期高齢者だし、兄もサラリーマンなら定年を迎えるような年になっていたので、このまま廃業しても誰にも迷惑をかけることはなくなっていた。むろん借金もない。逆に売掛金がだいぶ残ったらしいが。いつの間にか精米所もきれいさっぱり整理して更地にしてしまった。

 そしてつい2年前、兄が脳梗塞に肺炎を併発して亡くなった。64歳であった。この時点で飼料加工業は正式に廃業ということにした。父は、母そして長男にまで先立たれてしまったのだ。ただ父にとって救いだったのは、兄の1人娘が今年、長崎の大学を卒業して、わが家に戻り、久留米の病院で作業療法士として働くようになったことだ。仕事が忙しい両親(長男夫婦)に代わって、保育園に送り迎えしたりして育ててきたので、父にとって孫娘と一緒に暮らせることがいま一番の幸せなのである。

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〈7〉万能ネギ、養豚、母の死 [再び寄り道1953~]

 母はこの万能ネギを揃える内職をしばらくやっていた。近隣のネギ農家が畑から抜いたネギをわが家に運んでくるので、それをきれいにして決められた本数にまとめて揃えるのである。このネギがきれいにパックされ、航空便で東京をはじめ都会へ出荷されて、スーパーなどに並ぶ。「空飛ぶネギ」などと言われた。うんと細くてくさみも強い香りもねばりもないネギらしからぬネギだが、それが都会の人に受けたのである。ああまで無個性で味気ないネギは私は嫌いだが、「万能ネギ」というネーミングもよかったのかもしれない。いまやすっかり一般名詞になっている。でもみなさん、何に限らず、きれいな野菜果物は、それだけ農薬が使われているということをお忘れなく。

 母はしばらく豚を飼育していたこともある。豚は飼ってみると意外にかわいいものである。人の気持ちもわかるようだ。母がそばに来るといつもエサをもらっているからか、嬉しそうに鼻を鳴らす。せいぜい2、3頭だが、出荷できる成豚(というのかな)になると、発注主の養豚家が引き取りにきて、と蓄場に運ぶ。母によると、この日になると、雰囲気を察してか、豚は朝から悲しそうになく(泣く)というのだ。発注主がやってくると、母はかわいそうになって家に引っ込んでしまう。といいながらまたかわいい子豚を仕入れるのであるが。

 小さい頃から苦労続きのこの母が、60歳の頃だったか子宮筋腫になり、子宮を摘出した。がんではないということだったので、さほどの心配はしていなかった。ところが実際は子宮がんであった。父と姉は知っていたが、本人にはもちろん私にも子宮筋腫ということで通した。私がそれを知ったのは、母が亡くなった(1993年)後のことである。まだ告知をすることが一般的ではなかったし、ましてや子宮を摘出すれば一応は治るとなれば、母に真実を告げるということは考えられもしなかったのだ。当時としてはそれでよかったのかもしれない。「がん」と聞かされれば、それは死の宣告かのように受け取られていた頃である。

 母はその5、6年ののち肺がんが見つかり、父の必死の看病も実らずに68歳で亡くなった。今から22年前である。この肺がんが以前の子宮がんからの転移かどうかはわからない。ただ、タバコも酒も全く飲んだことがない大正生まれの母が肺がんというのは、転移と考えれば少しは考えやすい。私の肺がんが見つかったのはそれから27年後のことである。がん体質が遺伝するのかも知れないが、あんまり関係なさそうである。たぶん私の場合は若い頃の喫煙の悪習がたたったのだろうと思う。20年以上もかけてがんは大きくなるそうであるから。喫煙習慣のある人たちよ、悪いことは言わない、いますぐタバコは捨てなさい。

 母はがんが見つかってから日田(大分県)にある済生会病院で化学療法を受けていた。手術するには手遅れだったのだろう。入退院を繰り返していたが、最後の数カ月ほどは20キロ以上離れている病院にいる母の元へ、父は毎日行っていた。このころ『病院で死ぬということ』(山崎章郎)という本がベストセラーになった。私も読んで、感動し、大いに蒙を啓かれた。やはり告知しなければ、病人は疑心暗鬼になるばかりで家族すら信用できなくなり、不安と不信を抱いたまま死んでゆく。母が亡くなった後、父にも読ませたが、「母ちゃんが死ぬ前に読んでおきたかった」としみじみ言っていた。

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〈6〉高度成長のあおりでどんどん変わっていく農村 [再び寄り道1953~]

 今はもうめんどくさい稲穂干しや籾干しなどはやらない。コンバインで刈り取りからすぐに籾になり、乾燥機で乾燥させる。いや、いまはもっとオートメーション化されているだろう。もうまったくこのへんの事情はわからない。

 ただ、私が子供の頃までは刈り取った稲を干したり、脱穀したあとの籾をむしろで天日干しするのは子供の仕事だった。このむしろ干しはめんどくさい。日になんどもかき回し広げる。雨でも降ってきそうなら大変である。あわてて屋内に引っ込める。籾すりをすると大量の籾殻が出る。この籾殻を蒸し焼きにする。これは説明がむずかしいが、庭で、煙突をつけた一斗缶の中で火をたいて、籾殻をかぶせて山盛りにする。てっぺんから煙突の頭が出て、そこから煙が出る。慎重に見守りながら、籾殻を炭にするのである。この真っ黒な籾の炭は翌春、稲代(苗床)を作るときに肥料として使う。また、冬のこたつに木炭の代わりに使う。(このへんはもう歴史の彼方なので、うろ覚えで正確ではない。いつかきちんと調べてみよう)

 昔の農家はよくむしろで天日干しをした。籾もそうだし、あとゴマ、ナタネ、大豆などだ。これらはカラカラに干して、唐竿(からさお、くるり)でたたいて実を出し、唐箕(とうみ)で風を送って殻と実を分ける。と書いてもわからんだろうな。なんともめんどくさい、時間のかかる、骨の折れる仕事である。これをずっとずっと、つい50年ほど前まではやってきたのである。いまはもうだれもやらない。機械があるし、第一、スーパーに行けばずっと安いものがあふれるほど並んでいる。

 さて、父はそうやって次第に農業から離れ、田植えや稲刈りなどの忙しいとき以外は、母親がおもに田んぼや畑の仕事をしていた。そのうち、米作りも減反政策やら始まり、次第にだれもが副業に精を出すようになる。農協が勧める商品作物を作ったり、工事現場に出たり、息子や娘たちは近くにできたキリンビールやブリヂストンの工場へ勤め出したり、後の私のように都会に出て行く。

 60年代半ば、母は、精米所の仕事の傍ら、裏の畑でブドウ栽培に精を出すようになり、しばらくはわが家もキャンベルなどの品種を作っていた。ブドウの袋かけなどもやった。葡萄酒を作っていた(密造)ときもある。むっちりと実がつまり、粉を吹いたブドウを冷やして食べると最高にうまい。収穫したブドウは、私が自転車で積んで市場に出荷したり、高校生になってからはオートバイの免許を取って市場に出していた。

 毎年、米価が決まる頃は国会周辺で米価闘争などと言って、全国から動員された農協組合員などが大騒ぎをしていたが、もうこれも歴史の彼方である。食管制度もなくなった。時代は変わる。60年代くらいから、タバコ(昔はタバコ畑も多かった。乾燥場もあった)やらラミー(知ってる?)やらブドウやらいろんな商品作物を農協は試行錯誤で進めるが、町レベルで大成功したのが富有柿と万能ネギの栽培である。山を開墾し柿を植え、畑にビニールハウスを作って万能ネギを作らせ、東京はじめ都会へと出荷する。ネギ御殿などという豪華な家を新築した農家も多い。

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〈5〉オート三輪に乗って [再び寄り道1953~]

 最近、父が語ったが、「父ちゃんはね、百姓やるのが好かやったけ(好きじゃなかったから)、あげな仕事を始めたったい」ということだったらしい。伯父も生前「おまいの父ちゃんはえらかぞ(偉いぞ)」といつも言っていた。確かに、戦争から帰ってきても、農家の次男では自分のいるところはないし、農地解放で田畑もほとんどなくなったから分家では農業だけでは立ち行かない。母の家に婿として入ってから、自分でできる独立した仕事を模索したのだろう。

 そのうち父は精米所の脇の畑だった土地に家を建てて一家で母の生家を出た。この引っ越した先の家は父がどこかで見つけてきた売り家の骨組み(今風に言えばスケルトンだな)を移築したものだ。昔風のでかい柱や梁を使って頑丈な家を作った。私が小学校2年生のときだ。当時、100万円かかったと言っていたが、これは子供の感覚では無限大にも近い金額だった。前の家とその裏手にあった田んぼを売って足しにしたらしい。

 農家相手の精米所だけではやはり売上げはたかが知れている。当時は米の売買は国によって厳重に管理されていた(食糧管理制度・食管法)から、自由には扱えない。それでも闇米を仕入れて、福岡料亭などに卸す同業者はいたが、父は別の商売を考えてやりだした。

 農家では秋に稲を刈り、脱穀して、乾燥させた上で、籾すりをする。籾すりをするためには籾すり機がいる。この籾すり機をエンジン付きの台車に乗せて農家を回る。この移動籾すり機は町の精米同業組合で数台保有管理していて、組合員が当番で農家を回る。これも父の仕事で私もずいぶん一緒に回った。こうやって籾すりをした玄米を農協に供出するわけだが、供出できないくず米が一定量出る。「くだけ」と言っていたが、籾すりの際、割れたり、もともと粒が小さかったりする米だ。

 この「くだけ」はお菓子(「おこし」っていう素朴なお菓子は知ってるかな?)や飼料の原料になる。この「くだけ」を農家を回って買い集める。集めた「くだけ」を吉井町にある商社の支店に売る。この商社は幅広く飼料を扱っている。この商社から父は当時流行だしたラーメン、焼きそばといった袋物の乾麺を仕入れて、「くだけ」を出してくれた農家に交換に渡す。もちろん現金でも交換する。そのうち秋月の製麺所からソーメンやソバの乾麺も仕入れるようになった。

 この取引にオート三輪(のちに普通トラックになったが)で、町中を回る。私はいつも助手席に乗っていて、荷物を上げ下ろしするときに手伝う。今でも懐かしく思い出すのは、大晦日にこの仕事を終えたら、駄菓子をいっぱい買って帰る。それを食べながら、その夜の紅白歌合戦を見るのだ。これが無上の楽しみだった。この仕事は私が大学生になって上京してから、たまに帰省するときまで続いた。

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〈4〉55年前の父と息子 [再び寄り道1953~]

 昭和22年に私の姉が、24年に兄が生まれている。末っ子に生まれた私はたいそうかわいがられたと姉がいまだに恨めしそうに語るが、私にはむろんそんな意識はない。ただ、私が生まれた頃あたりから少しずつ世の中も豊かになり出したと言えるかも知れない。そしてその頃に父は一念発起して精米所を建てて家業を始めた。精米、籾すり、押し麦、米・麦・大豆などの製粉などをおこなう、農村になくてはならない加工所である。農家は、自家用の米は籾で保存するから、籾すり、精米はもちろん、まだ牛馬をどこのうちでも使っていたから、それ用の飼料も加工する。

 この精米所とわが家は、同じ集落の中にあるが、端と端に離れている。朝、父は精米所に出かける。昼前に、母親が作った弁当を届けに私が精米所に行く。途中、急な坂道があったり、たまには出会いたくない乱暴者のガキ大将が待ち構えていたりする。そういうときはうんと遠回りする。まだ私が就学前の5歳の頃かからである。

 そのうちに父はオートバイを買ってきて、これで精米所に通ったり、コメを配達するようになった。たまに私を後ろに乗せて走る。一度はスタンドをきちんと上げていなくて、はでに転倒したこともあった。いまだにその時の痛さを憶えている。60年近く前のことなのに。オートバイでも仕事に不足が出るのか、父はその頃流行りだしたオート三輪車を買ってきた。もちろん、その当時運転免許を持ち、車を商売に使うなどということはそうあるものではない。集落内で1人だったと思う。父は実に進取の精神が盛んだった。

 当時、父は30代半ば。三輪車は四輪車よりはやはりバランスが悪くカーブを曲がるときなどはひやひやするが、小回りは利く。エンジンがうまくかからない時があるので、チョーク弁をなんべんも引く。コメや飼料などを積んであちこちと運ぶ。私はいつも助手席に乗って、荷物の上げ下ろしなどを手伝わさせられる。おかげでずいぶん体は鍛えられた。叺(かます)やt唐米袋(トマイブクロと呼んだ)を父とつかんで荷台に積んだり、精米所のなかに積み上げたりする。おかげでこういう袋物のトラックの荷台への積み方や、ロープの結び方などはすっかり覚えた。

 いま、家庭で米の量を計る計量カップは1合=180ccである。10合で1升(1.8ℓ)。白米1升はだいたい1.5キログラム。10升が1斗(ト)で15キログラム。4斗でカマス1袋ぶんになり、これが1俵=60キログラムある。米価はこれが単位(玄米)になる。このカマスを肩に担ぐのが農家の一人前の男である。私は中学高校の頃はこれができたが、いまはもちろんできない。やろうとすればぎっくり腰になること確実である。精米所には1合、1升、1斗それぞれの枡がある。これで米の量を計る。米をすくったり、入れたりして、正確にするために枡のヘリを転がす(すり切り)長い円柱状の木の棒もある。分銅を左右にずらして計る計量秤も自分の体重の量りながら使いこなした。

 いまスーパーなどで米を買うのは5キロないし10キロのビニール袋であるが、昔はそういう簡便な袋はないから、集落内で農業をやっていないうちから米の注文があるときは、枡で1升ずつ計って布袋などに入れて売っていた。子供の私が配達し売っていたのである。

 なお、石(こく)という単位もある、米や材木などの立体をはかる単位だが、玄米1石は10斗(150キログラム)だから2俵半である。江戸時代の頃は1石8斗がほぼ人ひとりが1年に食べる量とされていたという。1日5合の計算になる。宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」にも「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」とある。米だけの話だが、今の人はその半分も食べているだろうか。

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