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6.鳳凰三山であわや遭難 [私の山歩き]

 これは初めて尾瀬に行った翌年、もしくは前年の夏だったかも知れない。南アルプスの鳳凰三山に夜行1泊で登った。アルプスと名のつくところは山歩部では初めてだった。学生時代に行った北岳と同じで、新宿23時55分新宿発の南小谷駅行き急行で甲府まで行って、早朝の広河原行きのバスを待って、夜叉神峠入り口まで行く。甲府駅は当時建て替えを準備していた。あのころから、中央線沿線はどの駅も同じような安っぽいカラフルな駅ビルになっていった。

 さて、夜叉神峠入り口でバスを降りて、登山口から夜叉神峠を目指す。1時間ほどで峠に着く。ここから白峰三山(北岳、間ノ岳、農鳥岳)の眺めはすばらしい。峠をたって、杖立峠、苺平、南御室小屋を経て薬師岳小屋にたどり着くのに5時間超かかる。1日目はここで泊まり、翌日、薬師岳頂上、観音岳、地蔵岳と三山をめぐる。もう30年以上の前のことでもあり、ほとんど記憶がないが、地蔵岳の賽の河原とオベリスクはとても印象的だった。とくにオベリスクは周辺の山であればどこからでもそれとわかる特徴的な突起した巨岩である。チンポコ岩などというお下品な呼び名もある。

 今回の鳳凰三山登山でもうひとつ、忘れようにも忘れられないことがあった。それは下山コースを選択ミスし、あわや遭難しかけたことだ。普通は青木鉱泉に下りてバスで韮崎駅に帰るまともなコースがあるのだが、地図を見て、早川尾根をさらに奥へ向かい、白鳳峠から野呂川沿いの広河原に下りようとしたのだ。地図でもコースが点線で書いてあり、はっきりしていない箇所もあるかもしれないくらいは思っていたのだが、数日前に降った雨で、道がだいぶ荒れていたのだ。最初のうちは「これなら大丈夫だ」とずんずんと歩いて行ったのだが、中腹くらいまで下ったところで、すっかり道迷いになって、ただヤブコギするように下るだけになった。

 遥か眼下に広河原へ下る林道が見えてきたのだが、沢筋に入り込んで目の前が滝になったりして、行き止まり。また登り返して、尻で滑るように下る。ときどき大きな石が顔をかすめるように後ろから飛んでくる。こういうことを何度か繰り返して、やっとの思いで林道に下りた。あれは危なかった。明るいうちに下りられたからいいようなものの、暗くなったり雨や雪が降ってきたりしたらどうなったかと思うと今でもヒヤヒヤする。遠回りでも安全なコースをとるべきだとつくづく反省した次第である。


 

5.秋がくれば思い出す尾瀬 [私の山歩き]

 東京を中心に日帰りのハイキングコースは、丹沢、奥多摩、高尾山から続く中央線沿線、秩父などが中心になる。これらの山々はこれまでの30年余で行き尽くしたと思えるほど通っている。毎月の例会のほかにも、個人的に月1回は登っていた。だから毎年20回以上は出かけていたことになる。そして、夏から秋にかけては小屋どまりで夜行プラス1〜2泊の山行が毎年の恒例になった。経験者もごく限られていたので、冬の雪山やロッククライミングはやっていない。

 さて、丹沢縦走の後は夏にどこへ行こうかということになって、「尾瀬!」ということに当然のように決まった。はっきりとした年は覚えていないがこれも昭和の50年代半ばで、7月下旬の梅雨明けに予定した。実際は予定通りには梅雨が明けなかったので、1週間延期したが。

 7月最終週の金曜日の夜行列車で上越線沼田駅へ。まだ夜中の2、3時くらいに出るバスに乗って大清水まで。まだあたりは真っ暗である。ヘッドランプを付け三平峠へと向かう。途中、石清水で顔を洗い、水を補給。三平峠からは尾瀬沼を見下ろしながら沼畔へと下りる。長蔵小屋を経て大江湿原を渡る。一面のニッコウキスゲ、湿原を流れる小川にはイワナ、ヤマメの類いが群れをなして泳いでいる。水中のバイカモにも白い花が咲いている。右へ折れて、燧新道という登山道に入る。足下は水がたまってびしょびしょである。

 3時間ほどかかって燧ヶ岳に山頂に着く。山頂は2つあって、俎嵓(まないたぐら2346m、こちらに三角点がある)に登ってから、柴安嵓(しばやすぐら2356m)に登り返すようになる。山頂から南に向かって立ち、左手東側に登り始めた尾瀬沼が眼下に広がり、右手西側には尾瀬ケ原が見渡せる。下りはその尾瀬ケ原を見下ろしながら見晴し新道を下る。これがいやになるほど長いのである。尾瀬ケ原は太古湖だったところの湖底である。だから標高がぐんと登り始めたところより低いのである。まるで「地の底に下りるようだ」と誰かが言ったが、そう思える。(写真は尾瀬沼からの燧ヶ岳、昭和50年代末、以下同じ)

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 見晴らし十字路まで下りて、すぐ近くにあった原ノ小屋に泊まることにする。当時はまだ予約など必要なく、行き当たりばったりでも泊まることができた。ただやはり、水芭蕉の初夏、ニッコウキスゲなどが花盛りの夏、草紅葉の秋の週末などはどこも混んで、断られることもあるが、小屋は多いのでどこかには泊まれる(もとい、泊まれた。昔の話である)。

 翌日はルンルンの尾瀬ケ原散歩である。朝、朝もやがかかった湿原一面にニッコウキスゲの黄色い花が咲いている。尾瀬と言えば水芭蕉だが、これは初夏に咲き終わるので、でっかいおばけのような株があちこちに残っているだけである。高山植物は種類が多くて1度行ったくらいでは覚えきれないが、湿原に点在する池塘(ちとう、小さな池)の水面や水中に咲く蓮の仲間の未草(ヒツジグサ、未時=午後2時頃に咲くのでこういう)や尾瀬河骨(オゼコウホネ)はとくにきれいだ。(写真は尾瀬ヶ原からの燧ヶ岳、秋)

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 尾瀬はそれから秋に行ったり、少人数のグループや家族で行ったりで、何回通っただろうか。燧ヶ岳と至仏山には5度ずつ登っているから7、8回だろう。行くのは夏休み(お盆)か10月の連休だが、澄んだ空気、風に揺れるワタスゲ、一面の草紅葉の秋の風情はたまらない。いつぞやは秋の朝、湿原の真ん中の木のベンチがある休憩所で、ワインをみんなで飲んだことがあった。ほめられた行為ではないが、あれはうまかったなあ。(尾瀬ヶ原からの秋の至仏山)

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 息子、娘が小学校へ入るようになると、家族4人で泊まりがけのハイキングへよく行ったが、尾瀬にも行っている。見晴し十字路にある有名な○○小屋に泊まったときのこと。午後チェックインしたのだが、夕方5時が過ぎ、6時を超えても夕食の案内がない。子供2人も腹を空かせているので、どうしたのかと食堂に行くと、「夕食はもう終わりました。前もってお伝えした時間に来ないと、夕食はお出ししません」と言うではないか。「そんなことは聞いていない」と答えると、「そうですか。それじゃあ今回だけお出しします。次回からは気をつけてください」と言って投げやりに出してくれた。たとえこちらが聞き漏らしたとしてもあの対応はないだろう。あの不愉快な思いは何十年経っても忘れない。もう2度とあの小屋には泊まらない。
 
 その数年後だったか、その○○小屋と同経営者の尾瀬沼そばの◎◎小屋を建て替えたときの廃材を尾瀬沼畔に埋めていたというので、新聞沙汰になったことがある。環境保護とかさかんに運動してきたリーダーが経営する小屋だったので、ずいぶんとマスコミにもたたかれた。環境保護、開発反対なんぞそんなものである。ほんと、そんなものであると思う。山小屋には南北アルプスはじめあちこちに泊まったが、混雑して眠れなかったりしたことはあっても、あれほど不愉快な思いをしたことはない。

 

【61】ヒトシ、運動会で走る、走る [保育園送迎記]

 もう小学生なので「ほいくえん送迎記」にはそぐわないのだが、ヒトシが小学入ってまだ1ヶ月しか経っていない昨日、運動会が催されたので、その話を少しばかり。この団地に隣接する金杉台団地のなかにある小学校と中学校を私の息子、娘は卒業したのだが、息子タカシと孫ヒトシはその小学校に親子2代で通っていることになる。金杉台団地は付近の高根公団団地(当時の名称。いまは公団ではないが)などとともにできた高度成長期の典型的な集合住宅である。船橋駅からのバスの便しかなく、マイカーを持つ家庭などなどまだ限られていた時代は、陸の孤島などとよばれて私鉄のストなどあれば身動きが取れなくなっていた。

 ご多分に漏れず高齢化が進み、団地の立て替えなども付近の高根公団などでは行われている。小学校も中学校も児童・生徒数は激減している。息子・娘の時代より半分以下になっている。そのためであろうが、運動会は小中学校合同である。中学生は小学生の数の半分で、100人いるのだろうか。まるで山の中の分校のようだ。

 その運動会で、ヒトシは小学校1年生から中学3年生までのリレー選手の1人に選ばれたという。たしかに小さい割にはすばしこいところがあって、保育園でも少しは走れていたが、「それはないだろう。ホラじゃないか」と息子夫婦も言っていた。現に、リレーの前に行われた1年生だけの徒競走では真ん中くらいの順位でしか走れなかった。「あの走りではとても無理だ」と思ったのだが、プログラム最後の紅白対抗のリレーの選手になっているではないか。

 聞くと、1年生の徒競走では走りの速い(遅い)順で組が決められているらしいということだった。私なんかはたぶん身長順だと思っていたが、そうではないらしい。つまり(相対的に)足の速いもの、そうではないもの同士で走る組が決められているようである。あんまり差が出ないようにと意図したものだろう。

 さて、赤白それぞれがハチマキチームと帽子チームに分かれて、4チームで競走をする。ヒトシは白ハチマキチームである。スタートは小学1年女子で、ヒトシは2番目にトラック半周を走る。第1走者の女の子は2番目に走ってきて、ヒトシにバトンを渡した。ヒトシはまだ体ができていないので、走り方があぶなっかしいが、第3走者にバトンを渡す寸前に後ろから走ってきた赤帽子に並ばれたものの、なんとか無事バトンをリレーすることができた。ジイジとしてはこれで十分以上の出来である。レースが終わって、駆け寄ってきたので「よしよし、えらかったぞ」と抱き上げて大いにほめてやった。あの小さな体で、転びもせず、バトンをにぎって、ちゃんと走りきっただけで100点満点である。

 後で聞いたところによると、事前に行われた体力測定の50メートル走でたまたま2番目にタイムが良かったので、機械的に選手に選ばれたのだそうだ。ヒトシはそういうことを事前に話していたはずなのだが、ふだんからあやふやな話をすることが多いので、その時にならなければそれがほんとかどうか信用できなかったのだ。

 運動会と言えば、私の小学生の頃は、地域対抗のリレー競走(部落リレーと言っていた)では酔っ払った親父がトラックに入り込んでわーわーと声援していたのを思い出す。小学校の運動会は、朝早くから天幕を建て、ゴザで場所取りをするようなお祭りだったのである。運動会が終わると、母親たちが村(部落)の公民館で、五目飯(味ご飯と呼んでいた)を炊いてくれて、子どもたちが動けなくなるほど腹いっぱいそれを食べるのが習わしだった。対抗リレーではずっと私は選手で走り、常勝チームだったのである。だから、優勝旗がいつも公民館に飾ってあった。50年以上前の九州の片田舎の昭和の話である。

4.同好会発足して高尾山から丹沢へ [私の山歩き]

 北八ヶ岳に行った連中が中心になって、同好会をつくって活動しようという話が出てきた。これには北八ヶ岳に行った人間以外にも参加希望者がいくらかあった。会則があるわけでなし、だれがリーダーでもない、なんともルーズなサークルであるが、名前だけはつけようというので、創立メンバーの1人のH中が「山歩部(さんぽぶ)」という名前をつけた。これが今日まで40年近く続いているのである。もっとも、当時のメンバーはすでにだれも会社にはいない。現在は山歩部の行事を行っても、参加するのはほとんどが退職者や転職者のOB、OGである。

 発足時のメンバーは20代がほとんどで、おじさんも数人参加してきた。短大を出たばかりの若い女性も入ってきて、なかなか華やかなサークルになった。だいたい月に1回活動することに決めて、毎年の計画(どこに登るか)を私が立てていた。新年会でそれをもとに各月の当番幹事を決める。のちに各月の幹事が山行の計画自体を立てるようになった。月500円だが会費も徴収することにした。日帰りで5000円、1泊ごとに1万円という補助金をそこから支出した。参加不参加はもちろん全く自由。家族友人の連れも大歓迎。取引先や著者関連の仕事仲間も参加するようになってきた。新人が入会したり、部員が退職したり結婚したりすると、歓迎会や送別会、祝賀会などもやった。

 最初の山行は自然と高尾山となった。高尾山から城山、相模湖へと下りる入門初心者コースである。女性も3、4人は参加して楽しいピクニックだったが、時間の配分を間違えてしまい、相模湖駅に着いたときは真っ暗な夜になっていた。その次は表丹沢縦走。この辺から少し本格的な登山・ハイキングが計画されてくる。5月のゴールデンウイークで、ふもとの畑には麦が青々とした穂を揺らし、山は山桜やこぶしが花盛りであったのを思い出す。昭和の50年代半ばであるから今から35年くらい前のことである。

 表丹沢縦走というのはハイキングガイド本などに初歩の縦走コースとしてよく紹介されているので、ハイカーも多い。当時でも5月の連休などは小田急線の秦野駅からヤビツ峠に向かうバスは人がこぼれるほどだ。ヤビツ峠から右手の山腹の道を辿れば大山に1時間ほどで登れる。われわれはウグイスのさえずりが大きくこだまする車道を進んだ先を左に入って、縦走路を登り始める。(ウグイスの鳴き声があまりにおおきく明瞭に聞こえるので、どっかでスピーカーでも仕込んであるのだろうかと思ったくらいだった。)

 二ノ塔、三ノ塔と見晴らしのいい尾根道を進んで、新大日、木ノ又大日を経て、塔ノ岳まで3時間半くらい。滑りやすいむき出しの土の道ということもあって相当にきつい。途中にはクサリを使う箇所もある。ただ、塔ノ岳からの展望はすばらしい。相模湾が眼下に見える。江ノ島も伊豆大島もそれとはっきりわかる。丹沢主脈の向こうには南アルプスも見える。冬は真っ白だ。むろん富士山もでっかくそびえている。ただし、相模湾からの上昇気流のせいで、頂上付近がガスっていることが多く、私も塔の岳にはそれ以来5度は登っているが、はっきりそういう風な展望が望めたのは2度あったかどうかくらいである。

 塔ノ岳からは大倉尾根という有名なバカ尾根をまっしぐらに下る。すべりやすい裸道を急角度で下るので膝ががくがくしてくる。下りだからまだいいが、登りはさぞきつかろうと思うのだが、これがそうでもないのである。ゆっくりペースを保って登れば、長く険しい登りでも、いつの間にか頂上につくものである。下りのほうがきつい。「ゆっくりペースを保って」というのはどんな山でも同じで、これができればたいがい大丈夫だ。大倉尾根はふもと近くになるとカエデの並木になっていて、新緑、紅葉とも楽しめる。2、3年前に同じコースを辿ったとき、鹿が数頭登山道にたむろしていた。(たったいま大きな地震があった5/16/9:23)

 丹沢は特に蛭ヶ岳など主脈には鹿が頻繁に見られる。熊などと違って人に危害は加えないので、ついめずらしくなってうれしい気分になるものだが、これがくせもの。鹿の食害は深刻である。木々の新芽や下草などを食い尽くして、山を荒廃させる。また鹿に寄生する蛭がやたらに増えて、ハイカーを悩ませる。ふもとの雑木林なども、昔と違って、だれも手入れする人がいなくなってきたので、蛭がはびこっている。さらに深刻なのが酸性雨による樹木の立ち枯れだ。西丹沢のブナ林が無惨な姿になっている。首都圏の工業地帯や車の排ガスなどの影響ではないかと言われている。

3.社員旅行のついでに北八ヶ岳へ [私の山歩き]

 北岳に登った年の暮れに十二指腸潰瘍(穿孔)という深刻な病気になり、胃を5分の4も切除するという手術を受けたことはどこかで書いた。だから、しばらくは山に登るなどということはできなくなった。体重は10キロも減り、食も細くなった。ダンピング症状で食事のあとはきつくて動けない。

 そんなこんなで登山を再開するのは大学を卒業し、就職した(1976年)会社でサークル活動を始めてからであった。あの当時は社員旅行が毎年秋に行われており、そのための積立金が給料から天引きされていた。でんでん虫会という名の親睦団体が主催するという形だったのだ。でんでん虫という名前はそれによく似た社章に由来する。

 でんでん虫会の積立金は社員への少額の貸し付けにも流用されていて、私は給料日前はいつも利用していた。毎月15日を過ぎると会社から給料の前借りができる。もちろん基本給の半額以内という限度額はあって、借りるのはせいぜいが1、2万円である。それでも足りなくなると、でんでん虫会からさらに1万ほど前借りするのである。当時は給料は現金払いで、銀行振込はまだ一般化されておらず、キャッシュカードなどないし、CD(キャッシュディスペンサー)とかATMなどという罰当りな機械はまだない。サラ金とか消費者金融などというおぞましい商売もない(あったのだろうが、まだ影の存在だった)。だから、会社からの前借りやでんでん虫会からの融資でも足りなくなれば、上司や先輩から借りるのである(給料日に即返せる1万円以内の範囲であるが)。借りた側は年季を経れば貸す側に回る。それはそんなに恥ずかしいことではなかった。その後、サラ金とか消費者金融とかが引き起こす悲劇を見れば、そういう人間関係が果たしてきた役割は実に有意義だったと思う。そんな昭和な時代だった(これは昭和50年代前半ごろの話です)。

 私が入社して数年(3、4年だったか)後、社員旅行で、鹿沢温泉に行くことになった。1泊した翌朝、宿のマイクロバスを出してもらって、北八ヶ岳に行こうという話がどこからともなく出てきたのだ。会社には山のベテランの屈強山男が1人いて、頼りになる男だったから、彼をあてして5人くらいだったか、大河原峠まで険しい山道を送ってもらった。

 大河原峠から双子池、横岳、そして縞枯山ふもとの縞枯山荘で1泊した。翌日は縞枯山から茶臼山、そして麦草峠に降りて、白駒峠に登り、神秘的な白駒池を見下ろして、賽の河原の岩だらけの下り道をスリリングに駆け下りて、渋温泉(奥蓼科温泉の一角)まで。そこから渋の湯で呼んでもらったタクシーで茅野まで降りた。

 数年後に蓼科山へ登った以外は、北八ヶ岳はそれ以来今日まで行ったことがない。実に印象的な2日間だった。麦草峠で買ってきたアルコールランプもしばらくは遊びで使っていたが、どこへ行ったか。

2.嵐の翌朝の大雲海と富士山 [私の山歩き]

 ずっと以前、『評伝今西錦司』(本多靖春著)という本を読んでいたら、彼(今西)らが学生の頃(昭和の初期だろう)は、北岳などの南アルプス(北部)に登るときは、甲府駅から歩いたという記述があって「わぁお」と思わず叫んでしまった。今はもう舗装されてるだろうが、私が最初に行った1972年当時は甲府駅から広河原までバスで3時間ほども谷間のがけを削って付けた細い砂利道をえんえん登って行くのである。こういう道さえ今西先生が学生の頃にはなかったのであろう。

 ずう〜っとのち、高村薫の直木賞受賞作の『マークスの山』を読んだとき、夜叉神峠から広河原に至る山道や登山道が新左翼学生たちの内ゲバの舞台として登場していた。高村氏も学生時代にこの辺の山に通われたらしいことがわかって、それ以来高村作品の熱心な読者になった。『マークスの山』はとくにその当時の世相をリアルに描き出していて傑作である。(氏は「私は単なるミステリーを書いているわけではない」とインタビューに答えて物議をかもしたことはいまでも納得しながら思い出す。)

 さて、広河原は富士川の支流である野呂川上流に開けたその名の通りの深山渓谷の中に開けた谷間である。大きなロッジもあり、聞くところによると、上高地のような登山基地兼観光地にしたいという地元の期待もあるようだ。北岳をはじめとする北部南アルプスの起点となって多くの登山者やキャンプなどを楽しむ人々でにぎわっている。

 野呂川にかかる吊り橋を渡ってから北岳への登山が始まる。大樺沢という沢筋の道をひたすら上り詰める。雪渓も所々に残っている。この日は午後から天気が崩れるという予報であったが、U田さんは、「大丈夫! 少しがまんすれば山小屋につくよ」と言う。4時間以上もかかって八本歯のコルという稜線にたどり着いた頃は、回り中真っ白、強風が吹き付け、雨も激しい。しかもここからがガレ場の稜線歩き。天気がよければ高山植物を眺めながら極楽気分で歩ける所であるが、ハシゴ、クサリなどを使った嵐の中の岩だらけの登山道は泣きたくなるほどきつくて怖いのだ。

 私は最後尾だったが、だんだん遅れだして、回りに誰も見えなくなった。岩に付けられたマークをたよりによろけながら歩く。雨風で冷えたからだのあちこちがこむら返りを起こす。脚から臀部、おなかの筋肉までつってしまった。こんなことは生まれて初めて。ほんとに泣き出しそうになった。U田さんの友人で登山ベテランのAさん(名前忘れた)が引き返してくれてリードしてくれたおかげで、やっとこさほうほうの体で山小屋に転げ込んだ。

 今は150人泊まれる立派な山小屋(県営北岳山荘)が稜線に立っているが、当時は谷側の水場のそばに木造の北岳小屋があるだけだった。今はヘリコプターで食糧や水を大量に荷揚げできるので、水場のない稜線に小屋を建てても経営できるのだろうが、荷揚げを人力に頼るしかなかった昔は、水場は山小屋にとってなくてはならないものだったのである。一晩中風に煽られてみしみしと音を立てていた。何を作って食べたか記憶がないが、自炊で夕食。明日はどうなるのだろうとハラハラしながら眠りについた。

 ところが、である。翌朝は見渡す限りの大雲海、空は真っ青に晴れている。西の空には富士山が雲の上から顔をのぞかせている。こんな絶景も生まれて初めてである。もうみんな走るようにして山頂まで登った。昨日の苦労もこの絶景を見れば吹き飛んでしまったのだ。

 下りは肩の小屋を経由して、草スベリと呼ぶ急降下の道を転げるようにして降りて行った。「膝が笑う」ということが実感としてわかった。その夜のうちに無事東京は池袋の下宿まで帰り着いた。翌日から数日は最大級の筋肉痛である。下宿の階段が上れずに往生したのをいまでも思い出す。平坦な道を歩くのがこんなにもありがたいことだと痛感もした。(写真は後年登った甲斐駒ヶ岳山頂から撮った北岳。手前は摩利支天)

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1.嵐の北岳に挑戦する [私の山歩き]

 朝早く起きて、BSのNHKなどを見ていると、百名山とかグレートトラバースだとか山に関する番組を繰り返し繰り返しやっている。こういうのは好きなのでこちらも「あそこは登ったぞ」「あそこは行きたかったが行かなかったな」とか思い出しながら飽きずに見ている。

 さすがNHKで百名山、二百名山を駆け巡る主人公よりも、撮影者のほうがよほどきつかろう、危なかろうと思えるほど実によくきれいに正確に撮影している。おまけに遠景から、空からこれでもかというくらいに構図の決まったみごとな風景を見せてくれる。おまけに音楽もぜいたくについている。

 かと思えば、里山だ、小さな旅だ、新日本紀行だと、日本のよき風景、人物、祭りなどをていねいに切り取って見せてくれる。そういえば、火野正平の「日本縦断こころ旅」も大好きである。以前、人気になった関口知宏の鉄道番組もよく見た。こういうキャラクターを見つけて育てるのはNHKならではだな。人気のこれらの番組を好んで見るのはおそらく中高年であろうから、聴取料対策としても効果があるのだろうとつい考えてしまう。民放のやかましいお笑い芸人が跋扈するバラティ番組などおよそ目に触れるだけで拒絶反応を起こすのである。

 話がつい変な方向に行きかけたが、山の話をしようと思っていたのであった。私が山に登り始めたのは大学に入った年の秋の「体育の日」連休のときだった。1972(昭和47)年、19歳である。大学の学生会館にあるサークルの部室で「おい、今度の連休に北岳に行くからお前らも来い」と先輩のU田氏に誘われたわれわれ部員4、5名が賛同したのである。

 それまで山など登ったことはない。高校のとき、屋久島に生物部の採集旅行について行って、宮之浦岳の裾野をちょっと歩いたくらいであったし、そのときでさえ、息が切れて情けない思いをしたくらいである。北岳と言えば海抜高度3192メートルの日本第二の高山である。「大丈夫だ、かんたんだ」というU田先輩の言葉を信じたわけではないが、だらけた学生生活に自分で活を入れようと思ったこともあり、「行ってみるか」と思ったわけである。

 登山道具など何も持っていないから、言われるまま安いキスリングとキャラバンシューズを買ってきた。今はもちろんこんな貧しいリュックやシューズはどこ探してもない。でも昔はこんなもんだったんだよ。(今、ネットで見たら、間違ってた。キスリングは高級品となって今も売っている。キャラバンも登山用品では大手の立派な会社である。ただ当時、キャラバンシューズと言えばゴム底の簡易登山靴だったのだ)

 あの頃は日本アルプス方面の登山列車は23時55分新宿駅発の南小谷行きの急行列車だった。今はもうない。夏休みの週末ともなると新宿駅はこのキスリングリュックを背負った学生や若いサラリーマンなどが長蛇の列を作って真夜中の登山列車に乗り込んでいたのだ。

 北岳は中央線の甲府駅で降りて、バスで広河原という登山基地となっている谷間まで3時間ほども走る。夜明け前の2時頃甲府駅に着いて、バスが出る夜明け近くまでまた待たされる。当時もタクシーはあったはずだが、そんなものに乗れる身分ではない。夜が明ける前の登山バスに乗って、信玄公の前を通りすぎ、釜無川を渡って行く。(つづく)