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〈8〉事業の拡大、牛肉輸入自由化、狂牛病 [再び寄り道1953~]

 父の仕事は、次第にスケールを増して、80年代に入った頃、飼料を加工する工場まがいの作業所を建てるところまできた。穀物商社から輸入トウモロコシなどを仕入れて、家畜の飼料を作る。この頃には兄が結婚し、一緒に仕事をするようになった。本家の従兄弟も雇って手伝ってもらうようになった。そのころは減反政策やら兼業農家の増加やらで精米所の仕事もだんだん減ってきて(農家がスーパーで野菜を買う時代である!)、母が片手間でこなすぐらいであった。

 私も帰省したときなどに一緒に飼料の配達につき合ったことがあるが、畜産農家の牧場、養豚場、養鶏場などはだいたいが山の中である。くねくねと山道を登った先にあることが多い。牛、豚、鶏、馬(食肉用)、七面鳥などもある。配達も大変だが、集金も大変である。もっともっと大変なことも起こった。90年代から始まった牛肉の輸入自由化の波である。今回のTPP交渉でもアメリカの豚肉の自由化攻勢はすさまじいものがあるようだが、当時は牛肉だった。よほどの高級和牛を生産する畜産農家以外は成り立つわけがない。つれて、わが家のような零細加工業者も次第に先細りになっていく。

 そして2000年代初めの狂牛病問題が追い打ちをかけた。あれは何だったんだろうかと今でも思うのだが、なぜに日本人はあれほどまでに大騒ぎするのか。重大な問題には違いないが、なぜに日本中がパニックになったように右往左往するのか。畜産農家はもとより、日本中で焼き肉屋が閑古鳥が鳴くようになり、潰れた店も多い。鳥インフルエンザが問題になったときは、養鶏の大量死を通報せずに鶏を出荷したとして、兵庫県の養鶏業者が袋だたきに遭ったことがある。あわれ経営者夫婦は首をくくってしまった。新聞テレビなどのセンセーショナルで執拗な報道が人を追い詰めたり、まじめな業者を廃業に追い込んだりする。騒ぎすぎなのである。しかもマスメディアは時間が経つとすぐに古くなった事件を忘れて次の獲物を探し出す。冷静に事実のみを報道すればいいのに、といつも思う。

 話がうんと逸れてしまった。申し訳ない。そうやってわが家の事業も次第に縮小せざるを得なくなってしまった。ただ、もうその頃には父はもちろん超後期高齢者だし、兄もサラリーマンなら定年を迎えるような年になっていたので、このまま廃業しても誰にも迷惑をかけることはなくなっていた。むろん借金もない。逆に売掛金がだいぶ残ったらしいが。いつの間にか精米所もきれいさっぱり整理して更地にしてしまった。

 そしてつい2年前、兄が脳梗塞に肺炎を併発して亡くなった。64歳であった。この時点で飼料加工業は正式に廃業ということにした。父は、母そして長男にまで先立たれてしまったのだ。ただ父にとって救いだったのは、兄の1人娘が今年、長崎の大学を卒業して、わが家に戻り、久留米の病院で作業療法士として働くようになったことだ。仕事が忙しい両親(長男夫婦)に代わって、保育園に送り迎えしたりして育ててきたので、父にとって孫娘と一緒に暮らせることがいま一番の幸せなのである。

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〈7〉万能ネギ、養豚、母の死 [再び寄り道1953~]

 母はこの万能ネギを揃える内職をしばらくやっていた。近隣のネギ農家が畑から抜いたネギをわが家に運んでくるので、それをきれいにして決められた本数にまとめて揃えるのである。このネギがきれいにパックされ、航空便で東京をはじめ都会へ出荷されて、スーパーなどに並ぶ。「空飛ぶネギ」などと言われた。うんと細くてくさみも強い香りもねばりもないネギらしからぬネギだが、それが都会の人に受けたのである。ああまで無個性で味気ないネギは私は嫌いだが、「万能ネギ」というネーミングもよかったのかもしれない。いまやすっかり一般名詞になっている。でもみなさん、何に限らず、きれいな野菜果物は、それだけ農薬が使われているということをお忘れなく。

 母はしばらく豚を飼育していたこともある。豚は飼ってみると意外にかわいいものである。人の気持ちもわかるようだ。母がそばに来るといつもエサをもらっているからか、嬉しそうに鼻を鳴らす。せいぜい2、3頭だが、出荷できる成豚(というのかな)になると、発注主の養豚家が引き取りにきて、と蓄場に運ぶ。母によると、この日になると、雰囲気を察してか、豚は朝から悲しそうになく(泣く)というのだ。発注主がやってくると、母はかわいそうになって家に引っ込んでしまう。といいながらまたかわいい子豚を仕入れるのであるが。

 小さい頃から苦労続きのこの母が、60歳の頃だったか子宮筋腫になり、子宮を摘出した。がんではないということだったので、さほどの心配はしていなかった。ところが実際は子宮がんであった。父と姉は知っていたが、本人にはもちろん私にも子宮筋腫ということで通した。私がそれを知ったのは、母が亡くなった(1993年)後のことである。まだ告知をすることが一般的ではなかったし、ましてや子宮を摘出すれば一応は治るとなれば、母に真実を告げるということは考えられもしなかったのだ。当時としてはそれでよかったのかもしれない。「がん」と聞かされれば、それは死の宣告かのように受け取られていた頃である。

 母はその5、6年ののち肺がんが見つかり、父の必死の看病も実らずに68歳で亡くなった。今から22年前である。この肺がんが以前の子宮がんからの転移かどうかはわからない。ただ、タバコも酒も全く飲んだことがない大正生まれの母が肺がんというのは、転移と考えれば少しは考えやすい。私の肺がんが見つかったのはそれから27年後のことである。がん体質が遺伝するのかも知れないが、あんまり関係なさそうである。たぶん私の場合は若い頃の喫煙の悪習がたたったのだろうと思う。20年以上もかけてがんは大きくなるそうであるから。喫煙習慣のある人たちよ、悪いことは言わない、いますぐタバコは捨てなさい。

 母はがんが見つかってから日田(大分県)にある済生会病院で化学療法を受けていた。手術するには手遅れだったのだろう。入退院を繰り返していたが、最後の数カ月ほどは20キロ以上離れている病院にいる母の元へ、父は毎日行っていた。このころ『病院で死ぬということ』(山崎章郎)という本がベストセラーになった。私も読んで、感動し、大いに蒙を啓かれた。やはり告知しなければ、病人は疑心暗鬼になるばかりで家族すら信用できなくなり、不安と不信を抱いたまま死んでゆく。母が亡くなった後、父にも読ませたが、「母ちゃんが死ぬ前に読んでおきたかった」としみじみ言っていた。

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〈6〉高度成長のあおりでどんどん変わっていく農村 [再び寄り道1953~]

 今はもうめんどくさい稲穂干しや籾干しなどはやらない。コンバインで刈り取りからすぐに籾になり、乾燥機で乾燥させる。いや、いまはもっとオートメーション化されているだろう。もうまったくこのへんの事情はわからない。

 ただ、私が子供の頃までは刈り取った稲を干したり、脱穀したあとの籾をむしろで天日干しするのは子供の仕事だった。このむしろ干しはめんどくさい。日になんどもかき回し広げる。雨でも降ってきそうなら大変である。あわてて屋内に引っ込める。籾すりをすると大量の籾殻が出る。この籾殻を蒸し焼きにする。これは説明がむずかしいが、庭で、煙突をつけた一斗缶の中で火をたいて、籾殻をかぶせて山盛りにする。てっぺんから煙突の頭が出て、そこから煙が出る。慎重に見守りながら、籾殻を炭にするのである。この真っ黒な籾の炭は翌春、稲代(苗床)を作るときに肥料として使う。また、冬のこたつに木炭の代わりに使う。(このへんはもう歴史の彼方なので、うろ覚えで正確ではない。いつかきちんと調べてみよう)

 昔の農家はよくむしろで天日干しをした。籾もそうだし、あとゴマ、ナタネ、大豆などだ。これらはカラカラに干して、唐竿(からさお、くるり)でたたいて実を出し、唐箕(とうみ)で風を送って殻と実を分ける。と書いてもわからんだろうな。なんともめんどくさい、時間のかかる、骨の折れる仕事である。これをずっとずっと、つい50年ほど前まではやってきたのである。いまはもうだれもやらない。機械があるし、第一、スーパーに行けばずっと安いものがあふれるほど並んでいる。

 さて、父はそうやって次第に農業から離れ、田植えや稲刈りなどの忙しいとき以外は、母親がおもに田んぼや畑の仕事をしていた。そのうち、米作りも減反政策やら始まり、次第にだれもが副業に精を出すようになる。農協が勧める商品作物を作ったり、工事現場に出たり、息子や娘たちは近くにできたキリンビールやブリヂストンの工場へ勤め出したり、後の私のように都会に出て行く。

 60年代半ば、母は、精米所の仕事の傍ら、裏の畑でブドウ栽培に精を出すようになり、しばらくはわが家もキャンベルなどの品種を作っていた。ブドウの袋かけなどもやった。葡萄酒を作っていた(密造)ときもある。むっちりと実がつまり、粉を吹いたブドウを冷やして食べると最高にうまい。収穫したブドウは、私が自転車で積んで市場に出荷したり、高校生になってからはオートバイの免許を取って市場に出していた。

 毎年、米価が決まる頃は国会周辺で米価闘争などと言って、全国から動員された農協組合員などが大騒ぎをしていたが、もうこれも歴史の彼方である。食管制度もなくなった。時代は変わる。60年代くらいから、タバコ(昔はタバコ畑も多かった。乾燥場もあった)やらラミー(知ってる?)やらブドウやらいろんな商品作物を農協は試行錯誤で進めるが、町レベルで大成功したのが富有柿と万能ネギの栽培である。山を開墾し柿を植え、畑にビニールハウスを作って万能ネギを作らせ、東京はじめ都会へと出荷する。ネギ御殿などという豪華な家を新築した農家も多い。

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〈5〉オート三輪に乗って [再び寄り道1953~]

 最近、父が語ったが、「父ちゃんはね、百姓やるのが好かやったけ(好きじゃなかったから)、あげな仕事を始めたったい」ということだったらしい。伯父も生前「おまいの父ちゃんはえらかぞ(偉いぞ)」といつも言っていた。確かに、戦争から帰ってきても、農家の次男では自分のいるところはないし、農地解放で田畑もほとんどなくなったから分家では農業だけでは立ち行かない。母の家に婿として入ってから、自分でできる独立した仕事を模索したのだろう。

 そのうち父は精米所の脇の畑だった土地に家を建てて一家で母の生家を出た。この引っ越した先の家は父がどこかで見つけてきた売り家の骨組み(今風に言えばスケルトンだな)を移築したものだ。昔風のでかい柱や梁を使って頑丈な家を作った。私が小学校2年生のときだ。当時、100万円かかったと言っていたが、これは子供の感覚では無限大にも近い金額だった。前の家とその裏手にあった田んぼを売って足しにしたらしい。

 農家相手の精米所だけではやはり売上げはたかが知れている。当時は米の売買は国によって厳重に管理されていた(食糧管理制度・食管法)から、自由には扱えない。それでも闇米を仕入れて、福岡料亭などに卸す同業者はいたが、父は別の商売を考えてやりだした。

 農家では秋に稲を刈り、脱穀して、乾燥させた上で、籾すりをする。籾すりをするためには籾すり機がいる。この籾すり機をエンジン付きの台車に乗せて農家を回る。この移動籾すり機は町の精米同業組合で数台保有管理していて、組合員が当番で農家を回る。これも父の仕事で私もずいぶん一緒に回った。こうやって籾すりをした玄米を農協に供出するわけだが、供出できないくず米が一定量出る。「くだけ」と言っていたが、籾すりの際、割れたり、もともと粒が小さかったりする米だ。

 この「くだけ」はお菓子(「おこし」っていう素朴なお菓子は知ってるかな?)や飼料の原料になる。この「くだけ」を農家を回って買い集める。集めた「くだけ」を吉井町にある商社の支店に売る。この商社は幅広く飼料を扱っている。この商社から父は当時流行だしたラーメン、焼きそばといった袋物の乾麺を仕入れて、「くだけ」を出してくれた農家に交換に渡す。もちろん現金でも交換する。そのうち秋月の製麺所からソーメンやソバの乾麺も仕入れるようになった。

 この取引にオート三輪(のちに普通トラックになったが)で、町中を回る。私はいつも助手席に乗っていて、荷物を上げ下ろしするときに手伝う。今でも懐かしく思い出すのは、大晦日にこの仕事を終えたら、駄菓子をいっぱい買って帰る。それを食べながら、その夜の紅白歌合戦を見るのだ。これが無上の楽しみだった。この仕事は私が大学生になって上京してから、たまに帰省するときまで続いた。

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〈4〉55年前の父と息子 [再び寄り道1953~]

 昭和22年に私の姉が、24年に兄が生まれている。末っ子に生まれた私はたいそうかわいがられたと姉がいまだに恨めしそうに語るが、私にはむろんそんな意識はない。ただ、私が生まれた頃あたりから少しずつ世の中も豊かになり出したと言えるかも知れない。そしてその頃に父は一念発起して精米所を建てて家業を始めた。精米、籾すり、押し麦、米・麦・大豆などの製粉などをおこなう、農村になくてはならない加工所である。農家は、自家用の米は籾で保存するから、籾すり、精米はもちろん、まだ牛馬をどこのうちでも使っていたから、それ用の飼料も加工する。

 この精米所とわが家は、同じ集落の中にあるが、端と端に離れている。朝、父は精米所に出かける。昼前に、母親が作った弁当を届けに私が精米所に行く。途中、急な坂道があったり、たまには出会いたくない乱暴者のガキ大将が待ち構えていたりする。そういうときはうんと遠回りする。まだ私が就学前の5歳の頃かからである。

 そのうちに父はオートバイを買ってきて、これで精米所に通ったり、コメを配達するようになった。たまに私を後ろに乗せて走る。一度はスタンドをきちんと上げていなくて、はでに転倒したこともあった。いまだにその時の痛さを憶えている。60年近く前のことなのに。オートバイでも仕事に不足が出るのか、父はその頃流行りだしたオート三輪車を買ってきた。もちろん、その当時運転免許を持ち、車を商売に使うなどということはそうあるものではない。集落内で1人だったと思う。父は実に進取の精神が盛んだった。

 当時、父は30代半ば。三輪車は四輪車よりはやはりバランスが悪くカーブを曲がるときなどはひやひやするが、小回りは利く。エンジンがうまくかからない時があるので、チョーク弁をなんべんも引く。コメや飼料などを積んであちこちと運ぶ。私はいつも助手席に乗って、荷物の上げ下ろしなどを手伝わさせられる。おかげでずいぶん体は鍛えられた。叺(かます)やt唐米袋(トマイブクロと呼んだ)を父とつかんで荷台に積んだり、精米所のなかに積み上げたりする。おかげでこういう袋物のトラックの荷台への積み方や、ロープの結び方などはすっかり覚えた。

 いま、家庭で米の量を計る計量カップは1合=180ccである。10合で1升(1.8ℓ)。白米1升はだいたい1.5キログラム。10升が1斗(ト)で15キログラム。4斗でカマス1袋ぶんになり、これが1俵=60キログラムある。米価はこれが単位(玄米)になる。このカマスを肩に担ぐのが農家の一人前の男である。私は中学高校の頃はこれができたが、いまはもちろんできない。やろうとすればぎっくり腰になること確実である。精米所には1合、1升、1斗それぞれの枡がある。これで米の量を計る。米をすくったり、入れたりして、正確にするために枡のヘリを転がす(すり切り)長い円柱状の木の棒もある。分銅を左右にずらして計る計量秤も自分の体重の量りながら使いこなした。

 いまスーパーなどで米を買うのは5キロないし10キロのビニール袋であるが、昔はそういう簡便な袋はないから、集落内で農業をやっていないうちから米の注文があるときは、枡で1升ずつ計って布袋などに入れて売っていた。子供の私が配達し売っていたのである。

 なお、石(こく)という単位もある、米や材木などの立体をはかる単位だが、玄米1石は10斗(150キログラム)だから2俵半である。江戸時代の頃は1石8斗がほぼ人ひとりが1年に食べる量とされていたという。1日5合の計算になる。宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」にも「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」とある。米だけの話だが、今の人はその半分も食べているだろうか。

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〈3〉あのころの暮らしと風景 [再び寄り道1953~]

 私の生まれた家は、当時のあの地方の典型的な農家の造りであった。屋根は麦藁葺き、牛小屋と納屋も別棟(というのか)にあった。家に入ると、漆喰を土に混ぜてた固めた土間(ニワと呼んでいた)があり、履物を脱いで板張りに上がる。土間の続きに台所(炊事場)があって、かまどがふたつあり、これクドと呼んでいた。風呂は五右衛門風呂。台所のクドと背中合わせに焚き口がある。風呂を沸かすのは子供の仕事だった。燃料は山から取ってきた薪や廃材だ。家の裏には井戸が掘ってあり、ここからガチャガチャやる手押しポンプで水を汲む。

 あとは食事をする板敷きの間(その頃は、囲炉裏はすでになく、ちゃぶ台を使っていた。天井はなく、梁が黒光りしていた)と、3部屋(納戸とか仏壇のある座敷とか)の畳敷き。南面には広い縁側があった。縁側に面して外にでっかい梅の木が植わっていた。縁側に続く裏手の細い廊下の先に便所がある。平面図でも書かないとわからないだろうが、昔の田舎の農家はけっこう広いのである。

 母は毎朝、クドで火をおこして釜でご飯を炊く。子供心に母はいつ寝てるんだろうと、不思議に思っていたことを思い出す。煮物などは七輪を使うが、燃料はクドや風呂焚きから出る消し炭や豆炭である。豆炭とは石炭の粉などを丸く固めたものだ。七輪に火をおこすのは毎朝夕である。ずっとのちにプロパンガスが入ってきたときは、こんな便利なものがあるのかと目を丸くした。

 あのころ(昭和30年代前半)は何を食べていたんだろう。麦飯だった。肉や生魚はなかった。塩漬けのクジラはは良く覚えている。やはり穀類や芋、野菜類と漬け物に自家製のミソ、飼っている鶏の卵。お茶も裏の畑で作っていた。お茶っ葉を蒸して揉むときの強い薫りを思い出す。さすがに醤油ほかの調味料やイリコは買っていた。たまに生魚を売りに行商人が軽トラかなにかで回ってきていた。米との物々交換である。

 食べ物で思い出すのは、私はよくみそ汁かけご飯が好きで食べていたことだ。ネコまんまだな。昼飯はなにもないからおひつのご飯をよそって、朝の冷えたみそ汁をかけて食べる。これがうまい。(みそ汁もないときはご飯に醤油をかけてお茶をかけて食べる。)今、そんなことをしようものなら、家人に怒られてしまう。でも、卵掛けご飯や牛丼はいいけど、みそ汁かけご飯ななぜダメなんだろう? ね?

 家の前には広い庭(広いと言っても、子供の目にはそう映るだけだが。ここを外〈ソト〉と呼んでいた)があり、半分は畑にしており、後の半分で、秋の収穫時などにモミやナタネや、ゴマ、大豆などを干す。子供の遊び場でもある。缶蹴り、メンコ(パチンと呼んでいた)、コマ回し、釘さし、ビー玉(「ラムネん玉」と呼んでいた)、季節により天気により遊びにもいろんなバリエーションがある。小学生になると、夏休みにはここで近所の子らとラジオ体操をやっていた。父が毎年、朝顔を植え、屋根まで伸ばしていた。

 その庭(ソト)の前は幅5メートルほどの道路だ。これが昔からの幹線道路だった。筑後川上流の日田から福岡方面に伸びている。土を固めた大昔からの道だ。雨が降るとぬかるむ。通るのは主に人とリヤカー、牛馬、自転車などである。もっともその頃にはすでに立派な(といっても砂利道だが)県道ができて、筑後川よりのさらに南側を東から西へ走っていた(現在は国道386?号線)。そのまたずっとあと、今から20年ほど前には国道をまたぐように大分自動車道という高速道路ができた。この高速道路ができるので、大企業の工場やら大スーパーやら流通センターやらが進出してきた。(写真は松田、西丹沢あたりの山里。似たような風景が日本中にあるものである)

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〈2〉思い出が止まらなくなった [再び寄り道1953~]

 私が生まれたのは昭和28年1月3日(実際は前年末の28日だったが、こういう作為は昔はよくあったようだ。父親が役場に届けに行ったのが正月明けの4日だったので、前日に生まれたことにしたらしい。まあ、正月だしめでたいほうがいいだろうと)で、福岡県朝倉郡宮野村大字須川字来光寺というところだった。昭和の大合併で、4つの村が合併し、朝倉郡朝倉町となった。さらに平成の大合併で、いくつかの市や町が合併して今は朝倉市となっている。

 生家は稲作農家である。父は18歳(昭和16年)で、旧帝国海軍に志願し、長崎で入隊し、以後、呉、千葉横須賀フィリピン台湾と転戦し、台湾で終戦を迎えている。戦争中の話はいつかきちんと聞いておこうとずっと思っているのだが、それができないでいる。こういう話はときどき思い出したように断片的に語る父親の話をつなぎ合わせたもので、細かいところは間違っているかも知れない。

 父の兄(私の伯父)は先年90代半ばで亡くなったが、中国戦線からフィリピンに渡ってそこで終戦を迎えている。この伯父が酔った時などに語る戦場の話は聞くに堪えないような部分もあった。いつもは冗談ばかり言う伯父だが、こういうときは辛そうに話していた。やはり日本人はアジアの人たちに謝罪を繰り返さなければならないことをしてきたのだ。父の下には2人の妹がいて、4人の兄弟姉妹の中で今も生きているのは父とすぐ下の妹の2人である。

 戦争から帰ってきた父は母親の家に婿養子となって入り、家庭を作った。私の母親は3姉妹の真ん中で、姉と妹を嫁に出して自分が家を継いだのである。母の父母は脳卒中で早くに亡くなっている。私は、父方の祖母をかすかに憶えているくらいで、あと3人の祖父母は見たこともない。戦前まではだいたい50歳くらいまでには死んでいたのだ。

 母がよく話していたことだが、当時はどの農家でも農耕用の牛を飼っていたが、母が牛を出して田起こしに使おうとすると、言うことをなかなか聞かない。「牛も女に使われると言うことを聞かなくなる。女だと思って馬鹿にしている」と言うのだ。そういうこともあるかもしれない。牛もちゃんと相手を見ているのだ。

 父親の生家(本家)は地主であったが、農地解放でほとんどの農地を手放してしまった。いまでも「あそこのうちはうちの小作だったが、今は大百姓だ」などとよく言っている。父親の取り分もいくらかあって、私もずっと農作業の手伝いをやらされていた。学校から帰ると、どこそこの田んぼへ来い、とメモが貼ってある。田植えや稲刈りなどの農繁期などは、学校から直接田んぼへ行ったりした。こういう時は、本家(伯父の家)と共同作業をする。まだ、農作業も機械化されておらず、ほとんどが手作業だった頃だ。(写真は陣場山からみた道志方面の山と山里)

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〈1〉夏になれば思い出す [再び寄り道1953~]

 台風がやってきたり、雨が多くなったり、そろそろ夏も終わりに入ったようである。この季節になるといつも思い出すことがある。私の生まれた田舎(福岡県旧朝倉郡)の家の裏手には田んぼがあり、その奥にわき水を溜めた貯水池があった。そこから田んぼに水を引いていたのだ。わき水の出る水のきれいなところで母親たちが野菜を洗ったり、池から田んぼへと水が流れ出る所では洗濯をしていた。昭和の昔のまだ水道や洗濯機が普及していない頃である。

 貯水池のさらに奥は崖状の竹藪で、そのふもとからわき出る水なので、とてもきれいな水である。コメを研いだりもしていた。朝夕には井戸端会議も始まる。夏休みともなると、その池が子どもたちが泳ぐための格好のプールとなる。池や川で泳ぐのは、午前10時以降と小学校の規則で決められているので、それまでがまんして待っていて、10時きっかりに池に飛び込んで泳ぐ。周囲にきちんと石垣が組んであって、約10メートル四方で深さが1メートル超くらいなので、飛び込みもできるし、幾組かに分かれて、リレー競争もできる。どこから調達したのか車のタイヤチューブを浮き輪にして使っていた子供もいた。

 わき水なのでとてもきれいで、とても冷たい。男の子たちは赤フン(というのか赤いまわし状の布帯)を締めるが、フリチンのままの子もいる。女の子もその中で遊ぶ。夏休みが終わって2学期が始まっても、9月の前半くらいまではまだ暑いし、学校もしばらくは半ドンなので、帰ってきたら泳ぎに行く。子どもたちは日焼けしてみんな真っ黒である。

 こうやって子供が遊んだり、生活用水として使われていても、石垣が積んであるからか魚もよく泳いでいる。アブラハヤ(アブラバヤと呼んだ)、フナ、カジカ(同ドンポ)、ドジョウ、メダカといった淡水魚やイモリ(同イモリンとかアカハラ)が多かった。夏になるとホタルが群れをなして光り飛ぶ。池の底は砂利や泥なので、子供たちが遊ぶと濁ってしまうが、翌朝はまたきれいに澄んでいる。

 昭和30年代前半まででそういう光景はなくなった。田んぼで農薬を使うようになって、池が汚れたり、水道や洗濯機が普及して、池を使うことも少なくなり、池の管理が行き届かなくなった。そして子供の数も少なくなり、そうやってワイルドに遊ぶこともなくなった。たまに帰省したときにその池を見に行くことがあるが、もうまったく当時の面影はない。子供も全く見かけない。
(写真は田植え時期の千葉県印旛沼周辺。私の生家近くとよく似ている光景だ)

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